【禁不可刺】
通行の『針灸甲乙経』巻之五の針灸禁忌第一下に,禁不可刺のツボの羅列が有る。神庭、上関、顱息、左角、人迎、雲門、臍中、伏菟、三陽絡、復留、承筋、然谷、乳中、鳩尾。正確にはツボ名ではなさそうなものも有り,禁不可刺ではなく,不可深とか不可多出血とか付加条件めいたものがついたのも有る。
黄竜祥さんの新校本『黄帝針灸甲乙経』では,末尾の乳中と鳩尾は,いずれも胸部の穴であるから,「本書の体例を按ずるに,足部の穴である然谷の後に置くべきでなく,『新雕(孫真人千金方)』引く『甲乙経』にはこの(神庭禁不可刺,乳中刺不可深)十二字は無い,拠って刪す」という。また臍中の後に『千金』巻二十九、『医学綱目』巻九に引く本書に拠って「五里禁不可刺」を補う。
【『甲乙経』の五里】
実は『甲乙経』には,五里という穴は三つ有る。手の五里と足の五里と,もう一つは掌の労宮の一名として。手のひらの中央の動脈なんて,刺したら痛そうではあるが,それ以上の注意書きは無い。足の五里は,陰廉の下,気衝を去ること三寸に在って,刺入六分,灸五壮というのだから,普通の扱いの穴である。
手の五里は,肘上三寸に在り,裏の大脈の中央に向かって行く。「禁不可刺,灸十壮」というのだから,三つのうち刺したら危ないというツボが有るとしたらこれだろう。
【『素問』の五里】
『素問』の気穴論に「大禁二十五は,天府の下五寸に在り」とあり,楊上善注には「大禁なるもの有るは,五里穴なり」という。王冰注も「五里穴を謂うなり」として,ご丁寧にも「これを大禁と謂うは,その禁じて刺すべからざるを謂うなり」という。五里の位置を,楊上善は「臂の天府以下五寸に在り」とし,王冰は「尺沢の後」とするが,指す処は同じと思える。二十五について,楊上善は「五五二十五往してこの穴の気を写せば,気が尽きて死す,故に大禁と為す」という。王冰の意もほぼ同じ。これは『霊枢』玉版篇に「これを五里に迎え,中道にして止める,五至にして已む,五往して蔵の気は尽きるなり」を拠り所とするのだろうが,結局何をいっているのかはっきりしない。「五里」は五裏で五陰で五蔵,その蔵気を中道に止める?張志聡は,「五至」とはその気を迎えて至らせること五度,「五往」とはその気を追うて往かせること五度,という。よく分からないが,至・迎と往・追が気にいったので拾っておく。迎えてこれを奪わば,いずくんぞ虚無きを得んや。追うてこれを済わば,いずくんぞ実無きを得んや。五五二十五度すると蔵の気は尽きる。ここの五里を,諸家はかたくなに五里穴と説明する。
【『霊枢』(『針経』)の五里】
九針十二原篇に「陰を奪われたものは死に,陽を奪われたものは狂う」とあり,本輸篇の「陰尺動脈は,五里に在り,五腧の禁なり」を引いて,小針解篇の解としている。
しかし何度も写されると命に関わるツボが,特別に手の陽明の経脈上に在るというのは,奇怪ではないか。
根本的に異なる解釈を示す。
本輸篇の「陰尺動脈,在五里,五腧之禁也」の「尺」は「之」の誤りで「陰の動脈」,「五里」は「五裏」すなわち「五条の陰経脈」,これを迎えて,五たび(たびたび)写せば,五蔵の気が尽きて,死す。
「五腧之禁也」を,桂山先生は,井滎兪経合の五腧の血気が尽きるというが,むしろ五種の本輸穴を刺して,五蔵の気を尽くすのは拙い,というのだろう。
【胃の大絡は名づけて虚里と曰う】
ところで『素問』平人気象論に,「胃の大絡,名づけて虚里と曰う,鬲を貫き肺を絡い,左の乳下に出で,その動が衣に応ず」といい,楊氏が「虚里は,城邑の居る処なり」といい,「常に動有りて衣に応ずるなり」というところからすれば,心臓の拍動部に相当する。無闇に刺しては,それはまあ危ない。
五里を刺すのを禁じるのは,虚里の誤りから発したか,あるいは連想からきて,畏れたのではなかろうか。虚里と五里,形誤か声誤か知らないが,互いに誤ったのではないか。
【結論】
全体的にいえば,「手足五条の陰経脈は五蔵と密接に関わっているのであるから,無闇にたびたび刺針すべきものではない」という解釈を取りたい。
心、肺、脾、肝、腎の「五脈を取るものは死す」に畏れかしこみ,陽明、太陽、少陽の「三脈を取るものは恇れる」におそれ怯える。全篇を通じて,五脈といえば陰経脈,三脈といえば陽経脈のことと思う。
臨床の大家が,若い頃の失敗として,五里に刺したら神経叢に中って,腕が挙がらなくなって慌てたといっていたが,その程度にはどのツボだって危険だろう。
菅沼周桂の『鍼灸則』付録に「予が一家門流に於いて謂(おもえ)らく周身みな禁穴なり」というのは,「そんなことをいったら,どこの穴どんな穴だってみな禁(つつ)しんで針灸すべき穴だ,決まった禁(さしとめるべき)穴なんてものは無いのだ」,ということ。
読者つつしんで誤ることなかれ。
もつとも,養成学校時代の先生に,たとえ理屈がどうであれ,古来いけないとされていることを,患者に試すなんぞは言語道断だ,と言われた。もつともである。須く己に試みよ。ついで女房子供に。名医の家族というのも,どうもなかなかタイヘンだ。
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