橘姓左合氏の研究

先祖に有名人なんて居そうに無い。でも、何せ少ない苗字であるから、左合某というのが見つかれば、まあ多分何かの縁は有る。と言うわけで……。

人偏の有無は考慮しません。苗字とはもともとはそうしたものです。
郷土資料を活字化したものの校正は沙汰の限りではない。誤字脱字は断り無く訂正補修した。


左合家の系図 岐阜の左合の本家筋に伝わるもの 直接には『厚見村史』より

第一代目 佐川修理太夫

讃岐ニ居住延文年中より美濃へ来り土岐左京公に御奉公仕居申候
右佐川は禁裏に軍陣の時右の手を切られ左手にて勝負仕り勝申候て褒美に佐川を左合と改め被下候其時紋所ことじ被下裏紋迄被下三がい松にて御座候
知行四百五十石
※左合は左手で合戦の意味だろうか。佐川は讃岐の十河(そごう)氏の場合から考えるに、もともと「さごう」と読んでいたのかも知れない。
※修理大夫などという高位であろうわけが無い。修理職の下級官人をきどっていた太夫だろう。
※『美濃諸旧記』とか『美濃明細記』とかに登場する佐合修理忠正だと思われる。延文は1356年から1361年で、土岐頼芸の近臣という記事からみても、長良川畔での斎藤道三と義竜の合戦に加わっていることからみても、二代目との年代差からみても誤りのはず。天文であろうか。あるいは讃岐から来住してから修理を称するものが数代続いたのかも知れない。ただ、佐合修理を頼芸の君側の奸、新参者と貶めた文書が有ったような気がする。

 

※丸に琴柱  丸に三階松 
第二代目 左合源右衛門
修理太夫の惣領 妻は笠松藤掛三河守の妹也 源右衛門の女子一人越前国大野土井甲斐守様御家中江縁付 二男理右衛門は加賀に御奉公仕其後斎藤山城守様にまかりあり又浪人仕下川手村に在候処に池田正入様に御供仕候て尾州岩崎にて討死 三男所右衛門三代目を相続 四男加右衛門五男次郎右衛門二人共稲葉彦六様に御奉公知行二百石宛 六男庄助は肥後細川越中守様に御奉公知行二百石 七男半右衛門は丹波篠山の城主に御奉公知行二百石
※藤掛三河守は、織田信長の妹の於市が浅井長政に輿入れしたときに送っていった人。ただし、笠松の人という書き方が分からない。
※越前大野で土井甲斐守と言えば利知で、天和三年(1683年)の襲封。年代が不審、末裔が仕えたという意味だろうか。
※長男の記載が無い。(これは勘違いだったみたいです。修理の長男が源右衛門,その弟に理右衛門や所右衛門がいたということだろう。)
※二男理右衛門が斎藤山城守の前に、加賀に御奉公というのは不明。斎藤山城守というのは普通は斎藤道三のことだろうが、義竜か竜興も山城守と称した可能性は有ると思う。道三の死は弘治二年(1556)、竜興が信長に美濃を追い出されたのは永禄十年(1567)。池田正入は普通は勝入と書き、恒興のこと。つまりこの討ち死には小牧長久手の戦い(1584)でのこと。まあ、竜興のもとにいたことがあったが浪人し、小牧長久手で一旗揚げようとして討ち死に、というほうが分かりやすくはある。
※四男加右衛門と五男次郎右衛門が仕えたという稲葉彦六は、貞道のことだろう。関ヶ原の戦いの後に豊後臼杵に転封。
※六男庄助が仕えたという細川越中守は、言わずと知れた肥後熊本の細川。
※七男半右衛門が仕えたという丹波篠山の城主は、江戸初期に煩雑に交代しているから不明。
※源右衛門の年代は不明だが、父の修理は天文十年(1541)ころには土岐頼芸の近臣であり、長良川の合戦(1556)にも馳せ附けている。子の理右衛門は天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで討ち死にしている。つまり、源右衛門は1556年には(父親が馳せ附ける合戦を傍観していても不思議がられない程度に)幼すぎるか、もしくは供をしても数に入れてもらえない青二才で、1567年には少なくとも児小姓はつとまりそうな子の父親であり、1584年には年よりすぎたという可能性が有る。
※『厚見村史』に載せる那波家の系図に、源右衛門豊澄というのがいて:
羽栗郡伏屋村左合八右衛門ヨリ養子依テ暫左合氏改苗
天正十二年(1584)八月廿五日卒
法名 教清院善室日峯 永禄三年(1560)十一月六日織田氏家中藤掛三河守永銭拾弐貫御検地証文宛名仙石治兵衛佐合源右衛門両人河野島初御検地入(河野島ハ印食村ノ事)天正中(十二年申十一月也)大阪御元〆伊藤左馬助郷名定候様被仰付印食村ト云フ御免状有
妻那波上野守久昌軒娘 法名永室貞寿大姉 天正八年(1580)十月三日
※また数代後の那波半平則澄の母を左合源右衛門娘としている。『厚見村史』の校正には問題が有りそうで、源右衛門の養子与左衛門重澄(もと小塩氏)の妻が源右衛門の娘、与左衛門の子の治左衛門政澄が半平の父というのはおかしい。
※那波半平の子の那波甚兵衛澄時の項に日蓮宗ギフ矢島町長照寺檀那堀津村平岡美濃守代官伏屋村佐合八右衛門水野覚太夫兄弟也とあるが意味不明。那波半平の二男と三男がそをれぞれ佐合と水野に養子に行ったということか。また半平の孫で甚兵衛の子の治左衛門広澄についても、妻は平岡美濃守代官佐合信右衛門娘とあり、尾州候家中佐合信右衛門弟野村吉右衛門ノ為ニモ姉也とある。ただし、いずれもこの左合家の系図には登場しない。
※左合源右衛門がほぼ同じ年代に複数いたようであるが、同一人物かどうかははっきりしない。もし関係ないとすると、別系統の左合氏が有ったことになるし、佐川修理太夫はご褒美に前からあった名跡を継がせてもらったことになりそうである。そんな大層なものだったかね。
※左合源右衛門はやはり一人だとすると、伏屋村の八右衛門と言うのは、当時の居住地と修理を名乗る前の通称ではないか。伏屋村は下川手の東、さほど遠くはない。通称は代々、親が修理で子は八右衛門だったのかも知れない。那波上野守の跡取りが長良川の戦いで討ち死にしたので、源右衛門が女婿に入ったが、はじめ女しか生まれなかったので、その女に小塩氏から婿をとって、他の女に生ませた男子(実は先妻の子かも)は左合氏を名乗った。那波氏については、父子というのは多くは系譜上のことで、実際には弟が兄の跡を継ぐといったことが多かったので混乱しているのでは無かろうか。小塩氏からきた養子の妻と半平が実は(年のかなり離れた)姉弟で、与左衛門の子の治左衛門が半平の父というのは、甥の跡を叔父(案外、年下だったかも)が嗣いだということかも知れない。尾州候家中佐合信右衛門というのも、尾張藩に仕えた人はいるにはいるのだから、その人の後の通称かも知れない。
第三代目 左合所右衛門
後正斎と云ふ 女房は岐阜中島文右衛門の娘 織田中納言様に御奉公御小姓其後加納松平作州様に被召出知行二百五十石摂津守様飛騨守様迄御奉公仕候其後川手村に引込み申候処へ大久保加賀守様に被召出知行同断二百五十石被下置候
※織田中納言は織田信長の嫡孫である秀信。ただし、秀信が関ヶ原の戦い(1600)の前哨戦で岐阜城に立てこもったときの衆中には、左合某はいないようである。つまりまだ子供扱いだったか、よほど軽輩だったか。
※仕えたという加納藩主は奥平美作守信昌、その子松平摂津守忠政、またその子松平飛騨守忠隆、および大久保加賀守忠職。信昌が松平氏を賜ったかどうかは記憶が無い。信昌が城主になったのは慶長六年(1601)、没年は元和元年(1615)、忠職が城主になったのは寛永九年(1623)。忠職の母は奥平信昌の一人女。
※『厚見村史』の付記に「左合湯のこと」として:
左合家、家伝の秘として古来より有名で婦人病、産前産後の特効薬である。三種の処方があって患者の訴える病状及産前、産後の区別によって、用法を異にする。世の所謂売薬と異り薬店では販売して居ないから、随分遠方からこの薬を求めるために旅をして来たものである。其起原は三代目所右衛門と言う人が医学に造詣深く、知行二百五十石で加納藩に仕えて居った頃に創められたものの由、その由来は古いが今根拠となる文献がない。
第四代目 左合清右衛門

第五代目 左合七兵衛
後所右衛門と申候 是は正斎の孫なり 惣領左合理斎 二男五右衛門 三男勘介は尾張大納言様に御奉公 四男茂右衛門五男庄九郎は酒井雅楽頭様にて病死 六男彌三太夫は稲葉丹波守様にて病死

以下省略


この系図は、実は『厚見村史』刊行当時の当主まで記載が有るが、残念ながら私自身がどうつながるかは分からない。直接的には祖父の兄が、祖父の祖父(高祖)が左合某の娘と結婚していたのを縁にして、商売上の都合(民間薬「左合湯」の製造と販売)で苗字を変えたのが初めらしい。高祖の名を小野木五右衛門といった。関ヶ原の戦いの当時、西軍に属して丹後国田辺城の細川藤孝を攻撃した小野木重次(の一族)の末裔らしい。先祖には美濃に移り住んでから、従者だか弟子だかと男同士の痴話げんかのすえに殺されたとかいう天晴れなのがいて、しかも祟りをなしたらしくて故郷に小さな祠が有る。本当の話かどうかは分からない。
父の名は文字は異なるが、三代目の後の名に因むらしい。


愛知県の佐合
佐合 さごう 江戸期の尾張国丹羽郡東野村(江南市)の庄屋に佐合家がある。同家はもと武馬を姓としたが,庄屋在勤中に領主から佐合姓を拝領したと伝える。
 なお,中島郡大毛村(一宮市)には安政五年から明治二年にかけて寺子屋師匠を務めた僧侶左合左仙がいた(寺子屋一覧)。『角川日本姓氏歴史人物大辞典23 愛知県』
※第五代目左合七兵衛,後の所右衛門の三男勘介が尾張藩に奉公したというのだから,その子孫が東野村の領主だったということだろうか。それにしても佐合なんて姓を賜って嬉しかったかね。迷惑だったんじゃないか。

加納藩 御家中知行渡方帳
  子 加賀様へ済
一 弐百石 百六石太郎丸 九拾四石佐波 佐合清左衛門

下川手村名主覚
此佐合、土岐美濃守様此国へ被成御座候時御供仕来り、右京大夫様御越ニ在宅仕、其後岐阜加納御代官衆奉公仕、左合源右衛門子左合彦太郎、杉山喜右衛門養子也、竹越次郎右衛門きも入にて下川手仕置ヲ請取其后利斉迄三代仕置仕候。
※この記述と先の系図と上の御家中知行渡方帳を突き合わせて考えると、源右衛門の子に彦太郎というのがいて、杉山氏の女婿となって下川手村の庄屋を承け継いだということではないか。以後おそらくは七兵衛、利斉と庄屋となった。一方、武家としては、源右衛門の弟の所右衛門が加納藩に仕え、その子の清左(右)衛門が跡を継いだ。七兵衛はおそらく、清左衛門の子で、清左衛門は庄屋にはならなかったので、下川手村庄屋としては、彦太郎、七兵衛(後の所右衛門)、利斉(理斎、初め七兵衛と申す)で三代となる。ただ、七兵衛について「是は正斎の孫なり」とわざわざ言うところが微妙ではある。

現在のところの推測
 延文年中に讃岐から美濃に移住してきたという伝承を信じると、これは足利の二代将軍のころである。事情は良く分からないが、同様に瀬戸内から美濃へ移住してきた諸士も少なくないようである。要するに南北朝の戦いの初期に、北朝方について立身しようとした讃岐の田舎侍ということでしょう。
 最初のころの住地は今の神戸町のあたりだったかと思う。それが室町時代を通して今の岐阜市南部から岐南町あたりに、細々とではあるが広がった。ひょっとすると美濃加茂あたりの佐合氏も同じことかも知れない。
 多分、その直系の左合修理というものが、まだ守護になってないころから土岐頼芸に仕え、頼芸が守護になってからは、君側の奸の一人にかぞえられる程度には成り上がった。けれども良いことは長くは続かず、斎藤道三が美濃を乗っ取った後は啼かず飛ばずだったらしい。だから、道三と実は頼芸の子であると噂される義竜が争った長良川の合戦では、義竜側に馳せ参じている。それで一応、義竜、竜興にも仕えたようだけれど、勿論、それほど大した身分ではない。斎藤氏が追い出されて、織田信長が乗り込んできた後、かつて守護が居た革手城のすぐ東の下川手村に帰農していても、べつにとやかく言われなかったようだ。帰農したと言っても、意識としては士分のつもりで、子孫の中には信長の家来の誰それに召し出されるものがいるというようなことは有った。中でも頼芸の近臣であった修理の孫にあたる理右衛門は、斎藤家が亡んだ後は下川手村に逼塞していたが、小牧長久手の戦いに、夢をもう一度と従軍して、あえなく討ち死にしている。こういうのが当時の美濃の諸士の実体で、教科書で兵農分離などと言ったところで、その推進者の地元でそんな程度の話である。
 後を継いだ所右衛門は、信長の嫡孫が岐阜の城主になったころには小姓として仕えている。関ヶ原の戦いのときには無事で、また農に帰り、家康の婿である奥平信昌が加納の城主になったときにはまた召し出され、その後、信昌の子孫が城主である間は仕え続けたが、父子兄弟の誰かが藩士、誰かが村役人という状態だったらしい。信昌の子孫が他へ転封になったときには付いて行かなかった。ここで基本的には士分を離れる。ただ、所右衛門は医に詳しかったと言われるから、村役人と医を兼ねた存在で、だから子孫も新たに入部してきた大名に藩医として仕えるというようなことは有ったらしい。

寛政重修諸家譜巻第千三百七十一 橘氏 佐合(さがふ)
●宗諄(むねあつ)益菴 法眼
元禄十二(1699)年三月二十八日医業をよくするをもって、初めて常憲院殿(綱吉)にまみえたてまつり、十三年(1700)十月十九日めされて奥医に列し、廩米二百俵をたまふ。十四年(1701)五月十二日御匙となり、十二月十一日法眼に叙す。十五年(1702)十二月三日三百石を加へられさきの廩米を采地にあらためられ、下野国芳賀(はが)郡のうちにしてすべて五百石を知行す。宝永六年(1709)常憲院殿薨御により二月二十一日務をゆるされ、寄合となり、七年(1710)五月晦日より瑞春院御方(綱吉妾小谷氏)の療治をうけたまわる。これよりさき常憲院殿親筆思誠をよび福寿の文字、或は神農あるひは蘆に鴈、或は馬雞の御画、或は金の唐松の御目貫等をたまわる。正徳二年(1712)六月十五日致仕す。三年(1713)七月二十二日死す。年七十二。法名宗諄。四谷の東長寺に葬る。のち代々葬地とす。妻は酒井阿波守家臣荒川瀬兵衛某が女。

省略

家紋 丸に三亀甲の内花菱 琴柱
この人が先の系図のどこに当てはまるかも分からない。つながるとすれば、左合所右衛門は織田秀信の小姓であったが、関ヶ原の戦いのころは、前哨戦の岐阜籠城の衆中には見えないから、まだほんの子供だったとして、その晩年の子(五十代にはなっていただろう)か孫に相当すると思われる。所右衛門には医学に関わる伝説も有る。先の系図に第四代目の清右衛門に記事が無く、第五代目の七兵衛にわざわざ「是は正斎の孫なり」と書くのと何か関係が有るかも知れない。宗諄は当然、父親の名を知っていたはずなのに、空白なのも疑問点。言いたくなかったのか。

讃岐の橘氏
『厚見村史』の系図では讃岐の出身と言い、『寛政重修諸家譜』では橘氏と言う。讃岐は橘氏の勢力が比較的強かった地域で、讃岐橘氏とよばれるものに長尾・寒川・三木氏があった。佐川はひょっとすると寒川と同じかも知れない。
聞くところによると、東讃岐の寒川氏は「三階松」を家紋にしているらしい。

濃尾諸士伝記 土岐氏来歴

……揖斐五郎(頼芸の弟の光親)来り給ひ……此者は、追付御家の仇となるべき間、秀竜(斎藤道三)が首を、我々に賜はり候へと、願ひ申されけれども、兎角頼芸御返答なく、秀竜が申す所偽なし、謀叛の企に疑なければ、速に太郎法師(頼芸の長子の頼秀)と揖斐五郎を害せんと、思召立ち給ひける色見えければ、近臣林駿河守正道、杉山刑部丞正定、佐合修理亮忠正、真野新之允吉重、同三之允以下、諫め申しけるは、昔より讒臣を信じて後悔多し。虚実も御糺しなく御生害とは、後に御悔み思召さば、甲斐あるまじ、是非思召止まり給ふべしと、理を尽し諫めけれども、讒言止まざりければ、……


美濃諸旧記 巻之十一 城主所主諸士伝記の事

安八郡前田の住人は 佐合修理忠正

※美濃国安八郡前田村は、前田利家とか玄以とかの前田氏の発祥の地らしい。利家の数代前に分家して尾張の荒子に移ったと言う。
※今の神戸町の中心部あたりか。


美濃明細記 巻七下 弘治元年同二年斎藤道三ト義竜ト長良辺ニテ戦道三討死之事

……則チ道三ト父子ヲ断テ斎藤ヲ一色ト改メテ一色左京大夫義竜ト称ス道三大ニ怒リ弘治元年国中ノ勢ヲ催シケレトモ義竜ノ勢ニ加リ鷺山ニハ十カ一モ参ラサリケリ義竜ノ味方ニ加ル宗徒ノ輩ニハ揖斐因幡守……其外他家ノ輩ニハ……那波上野守久昌軒……杉山刑部佐合修理……等馳付稲葉山ノ上下ニ充満シタリ道三方ニ来ル人々ニハ……林駿河守正道入道道慶……


鸚鵡籠中記 正徳四年十一月 大阪松本町船頭政之助口上

……さて琉球人出候て、様子を承り申し候えども、船より上げ申さず、日本の番所へ断り申すべしとて、食物など贈り申し候。松平薩摩守様より琉球へ遣わし置かれ候御番人の御役人佐合太郎右衛門殿付御役人田嶋市兵衛殿御越し候て、御改め、その後船中に御差し置き、船の廻りに垣を御結わせ、外へ出申す事なり申さず候。毎日御馳走にあい申し、……

※これは正徳三年(1713)の十一月に名古屋から大阪をめざした船が、難破して琉球に漂着した件についての口上である。佐合修理の子孫が薩摩に仕えて役人になっていたとは到底考えられない。薩摩藩の戸部良煕が宝暦十二年に薩摩領大島に漂着して琉球人潮平親雲上等から聞いた話を筆記した『大嶋筆記』という書物に「……かくて薩摩侯の家人、事の次第を間ひ聞……」云々とあり、自注して「佐合太郎左衛門、田島市兵衛」とあるらしい。あるいは、もともと薩摩にも佐合という苗字は有ったのかも知れない。鹿児島に佐郷という苗字が有ることは聞いたことが有る。


越前大野の左合氏
『大野市史』第五巻 藩政資料編二 に文政十年(1827)亥五月の類焼家屋として「三ノ丸長井四郎左衛門様、左合土之助様、御用人平岡伊織様、小林兵次郎様、御年寄田村又左衛門様、御奉行横田権三郎様、中村志津摩様、中御門番所留永五郎次」とある。してみると越前大野藩土井家に使えた相当な身分の左合氏がいたことになる。単に側近にいるべきお役目、たとえば奥医とかだったかも知れないが、名前は医者らしくない。

藩士名寄
徳川林政史研究所所蔵の旧蓬左文庫所蔵史料に、明治初年に作成された『藩士名寄』が有り、第三六冊に佐合氏が載っている。

佐合甚五郎
むかしちらと立ち読みしただけで記憶もおぼろなんだが、八切止夫という異色の歴史作家に『戦国美少年』とかいうのが有って、戦国三大美少年の一人になんと佐合甚五郎というのがいた。つらつら考えてみるに、これは森鴎外の『佐橋甚五郎』のことらしい。とすると、ここでは「さわせ」とでも読ませるつもりだろう。「さあい」と読むのは確かに有るらしいが。

讃岐の佐川氏
讃岐の佐川は確か惟宗氏で、惟宗氏は秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫だったと思う。

佐合島
山口県熊毛郡平生町の瀬戸内海に「佐合島」というのが有る。特に関係は無さそうに思うが、佐合あるいは左合の文字面を考える上で、何かの足しに成るかも知れないのでとりあげておく。
古くは佐郷とか佐河とかと書かれたらしいが,慶長5年の検地帳には佐合の文字が見られるという。小さな島にもかかわらず,北部と南部に100mを越す山があり,全体的に山がちで,つまりサカが多いから,サカ島と呼ばれたのがはじめかも知れない。

佐合井
佐合井という苗字が有って、「さごい」と読むらしい。これも苗字の意味を考える参考になるかも知れない。

左合と佐合
冒頭には人偏の有無は関係ないと書きましたが、現在の情況をみると岐阜市南部には左合、美濃加茂には佐合というはっきりした違いが有りますね。

さごう
「さごう」と読む苗字には他に佐郷、佐甲などが有るらしい。

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