2024年1月25日木曜日

専か尃か

 

仁和寺本『太素』02調食:其大氣之{⿰木専}而不行者,積於胸中,命曰氣海。

楊上善注:{⿰木専},謗各反,聚也。

校勘:『靈樞』56五味(明刊無名氏本){⿰木専}作搏,(明刊趙府居敬堂本){⿰木専}作摶。

※いずれにせよ木偏は手偏に改める。聲符専は專の俗,右肩の丶は無い。したがって{⿰木専}は字形のうえからは摶と解される。

 しかし,摶の字音は『漢辞海』で タン・セン。反切の謗各反はハクで異なる。ハクなら搏だろう。

 搏の字義は『漢辞海』で うつ・とる。聚也 とは些か距離が有りはしないか。摶ならば あつまる の字義が有り,『新字源』に類字として聚をあげており,問題ない。

 一般には音義の齟齬が有るとされ,すすんで楊上善が釋音を誤ったというものも有るが,大学者が搏・摶の字音を知らないなどということが有り得るだろうか。右肩の一點を缺くことなどは俗字の常であり,搏の例は教育部異體字字典にも取り上げられている。あるいは うつ・とる→拾い取る→あつめる→あつまる も案外と似通った概念かも知れない。


仁和寺本『太素』03調陰陽:聖人{⿰手専}精神,或服天気,通神明。

楊上善注:{⿰手専},附也;或,有也。

校勘:『素問』03生氣通天論{⿰手専}作摶。『故訓滙纂』に,『慧琳音義』に引かれた『考聲』として,「皆搏」の注「搏,附著也」,「摶霄」の注「摶,附也」を載せる。結局,搏と摶と,いずれが是かはっきりしない。ただ,經文の文字の傍らに「謗各反」と注記されているから,少なくとも鈔者は搏と理解していた。


仁和寺本『太素』05陰陽合:{⿰手専}而勿沈……,{⿰手専}而勿傅……。

楊上善注:{⿰手専},相得也。※『小字源』の搏に,つかむ・つかみとる。

『素問』06搏而勿浮……,搏而勿沈……。

王注:搏擊於手。

※『素問』經・注の字形と字義は搏であっている。『太素』楊注は若干微妙だが,まあ搏でいいだろう。


2024年1月22日月曜日

黄帝針経の基本としくみ(14)

 六府の合穴

 手の三陽経脈に大腸、三焦、小腸を配するのは,不当である。馬王堆の陰陽十一脈に拠って,歯、耳、肩の脈とした方が好い。

 したがって,足の三陽経脈と六府の関係にも異見が生じる。

足陽明は胃の脈である。本輸篇にも,「膝の下三寸は,胻の外の三里なり,合と為す,復た下がること三寸は,巨虚の上廉なり,復た下がること三寸は,巨虚の下廉なり,大腸は上に属し,小腸は下に属す」と言っている。邪気蔵府病形篇では,大腸の病は,腸中が切痛して鳴り,寒に重感すれば泄し,臍のあたりが痛み,久しく立っていることができない。胃の病は,腹が脹り,胃が心に当たって痛み,膈咽が塞がって,飲食が下らない。小腸の病は,小腹が痛み,腰背が尻に控えて(ひきつって自由を制限されて)痛む。

三焦に関しては,足の三焦という言い方が用意されている。足太陽の別で,委陽に出ず。足太陽の膀胱の合は委中である。委中と委陽は,小水の溢れるのと閉じるのとの調節を主どる可能性が有る。邪気蔵府病形篇では,三焦の病は,腹気が満ちて,少腹が堅くなって,小便も大便も通じず,溢すれば水,留まれば脹という状態になる。候は足太陽と少陽の間に現れる。膀胱の病は,少腹ばかりが腫れて痛み,手で按ずると小便をもよおすが,実は出ず,眉(『霊枢』の「肩」を『太素』『甲乙』に拠って改める)の上が熱するかもしくは陥み,足の小指の外側から脛踝の後が熱するかもしくは陥む。

もう一つ,足少陽の合は陽の陵泉である。邪気蔵府病形篇では,胆の病は,よく大息し,口が苦く,宿汁を嘔き,心下が澹澹として,人に追いかけられ,とらえられるように恐れ(経脈篇では,腎足少陰の脈の是動病),嗌がイガイガしてしばしば唾する。

六府の脈は下肢の陽脈である。

陰ではあるが足太陰の陰の陵泉も,上述した下合穴の仲間入りさせても好いかも知れない。九針十二原篇では陰と陽の陵泉を対にしている。

2024年1月21日日曜日

黄帝針経の基本としくみ(13 )

    原穴でダメでも本輸が有る

 原穴が五蔵の診断兼治療点で,五蔵の身体を管理する能力がいうほど完璧であるならば,他のツボなどは無用の長物,である。実際にはそうは行かないから,拡張セットを用意する。原穴でダメなら本輸が有るサ。

 ではどのように使い分けるのか。篇末に,基本的に四季に応じて,春は滎、夏は輸、秋は合、冬は井を取るとある。冬が井であることが不審かも知れないが,冬至が陰が極まって一陽を生じる時だから,冬に陽の始まりである井を取る。その他に,春、秋には絡脈と大経分肉の間を取り,夏には孫絡と肌肉の上を取る。この身体部位の何処を取るかという指示を逆用すれば,井滎輸合をどのような身体事情に応じて取るかの参考になるはずである。冬には諸井と諸輸を取る。諸井を取ることはすでに述べたが,諸輸は分からない。あるいは骨髄の誤りかも知れない。終始篇の春気は毫毛に在り,夏気は皮膚に在り,秋気は分肉に在り,冬気は筋骨に在りも参考になる。


  

2024年1月16日火曜日

黄帝針経の基本としくみ(12)

  【本輸】

 黄帝と歧伯の問答の辞は,篇首にしかない。おそらくは編集者が,篇の概要を示すために作文したものであろう。もともと一つの篇である。『太素』巻11には本輸篇に続いて変輸篇(『霊枢』順気一日分為四時篇)がある。本は基本あるいは本来,変は変化または応変だろう。

 目録

 黄帝が問うところは,後段の目録になっているらしい。つまり編著者の筆になるのではないか。しかし,それにしては,辻褄の合いかたが些か心細い。

 「経脈之所終始」 経脈についてはその始まりと終わりをいう。

 「絡脈之所別起」 絡脈にその別れて起こるところをいう。上文の経脈と下文の絡脈が対のようだが,本輸篇には絡脈の記事は乏しいように思う。そもそも「絡」という字は三焦の記事中に数カ所でるだけである。L05根結の根流注入の記事が続いて有ったのかも知れない。

 「五輸之所留止」 五輸の留まり止まるところは概ね頸項である。

 「六府之所與合」 五蔵と六府が与合するところについての記事がある。              

 「四時之所出入」 四季に取るべき本輸の記事がある。

 「蔵府之所流行」 蔵府の流行する所はどこのことをいうのか分からない。


2024年1月13日土曜日

黄帝針経の基本としくみ(11)

  速刺速抜と徐刺徐抜

 皮膚に熱が在れば速刺速抜して瀉す。つまり,散針であろう。寒が分肉の間に在れば,ゆっくりと冷えの在る深さまで刺し,ゆっくりと針尖に熱気が聚まるのを待ち,熱気を漏らさないように丁寧にゆっくりと抜く。補である。ここでは瀉法が浅く,補法はむしろ深い。

 L34五乱にも,徐入徐出の導刺についての記事が有る。


2024年1月12日金曜日

黄帝針経の基本としくみ(10)

 六府の要穴

 膏の原 肓の原

 五蔵の原は左右に二つずつで併せて十,残りの二つは膏の原と肓の原である。膏の原と肓の原の実際は何か。四時気篇には,邪が大腸に在れば「肓の原,巨虚上廉,三里を刺す」とあり,邪が小腸に在れば「これを肓の原に取る」とあり,「巨虚下廉を取って,以ってこれを去る」とある。しかし,大腸でも小腸でも肓の原というのはおかしい。実は『太素』では,大腸の方は「賁の原」を刺すことになっている。そして楊注に「賁は,膈なり」とする。またそもそも,九針十二原篇の「膏之原」も,『太素』諸原所生では「鬲之原」になっている。九針十二原篇も四時気篇も,校勘に拠って修正すれば,膏と肓あるいは鬲と肓の対になる。大腸に膏の原・巨虚上廉・三里と,小腸に肓の原・巨虚下廉。つまり,膏の原は大腸,肓の原は小腸を担当している。

 脹満と飱泄

 「脹満は三陽を取り,飱泄は三陰を取る」というのも,上下文の意と関わりが無いから錯簡だろうとされることが多いようだが,おそらくは誤解である。『針経』の諸篇にはしばしば脹満と飱泄を対挙している。府の二大症状として認識されているらしい。そこでそのそれぞれに対処するための原穴として,九針十二原篇では膏の原と肓の原を挙げ,「脹満は三陽(膏の原?)を取り,飱泄は三陰(肓の原?)を取る」と締めくくる。つまり,膏の原は脹満,肓の原は飱泄に対処している。ただし,三陽と三陰は,何か別字の誤りである可能性が高い。四時気篇にいう「飱泄は三陰の上を補い,陰陵泉を補う」と何らかの関連が有るとは思う。

 下陵 陰陵泉 陽陵泉

 陰に陽疾があれば下陵三里を取り,疾高くして内なるものには陰陵泉を,疾高くして外なるものには陽陵泉を配する。陰に陽疾がある云々は,陰である腹中に陽邪(あるいは熱象)がある場合にはすべからく三里を取るべしというのだろう。その上で陰・陽の陵泉を配する。四時気篇の「飱泄には,三陰の上を補い,陰の陵泉を補う」という記載を基として,『明堂』などの主治を考察すると,飱泄に陰陵泉というのはかなり普遍的な考え方らしい。そこで,脹満には陽陵泉という使い分けが成立するのかも知れない。気を下すべき状況で,脹満を外なるもの,飱泄を内なるものの代表とする。

 脹満:鳩尾・上巨虚・三里・陽陵泉

 飱泄:脖胦・下巨虚・三里・陰陵泉


黄帝針経の基本としくみ(9)

  五蔵の原穴

 五蔵に疾有れば,応は十二原に出ず。五蔵に疾有れば,当にこれを十二原に取るべし。

 原穴は微針でもって術を施すべきポイントであり,五蔵は経脈を通じた先の病所である。膈以上の陽中に心と肺が在り,五蔵の陰陽から心は太陽,肺は少陰である。膈以下の陰中に脾と肝と腎が在り,五蔵の陰陽から肝は少陽,腎は太陰である。脾は中央の至陰である。所属経脈の陰陽とは関わらない。

 五蔵の診断点(原穴)がいきなり腕踵関節に想定されるわけは無い。やはり直下の奥に五蔵が在ると想定した(背腧篇の)背腧が,診断点であり治療点であることの始まりだったのだろう。『針経』の配穴例の多くが挟み撃ちであることからすれば,原穴と背輸という二様の治療点を接続して,五蔵を治療するという思いつきは正統的と言える。

2024年1月11日木曜日

黄帝針経の基本としくみ(8)

 五蔵の気が内に絶えたか 外に絶えたか

 篇首の「微針を以て経脈を通じる」療法は,壁のスイッチを押して,天井の灯りを点すようなものである。

 ここの五蔵の気が絶えたことに対する処置はいささか異なる。いってみれば診断兼治療点と病所の関係を天秤棒のようなものとみる。五蔵の気がすでに内で絶えようとしている場合,針してその外を実せしめては,内部の気は重ねて竭してしまう。五蔵の気がすでに外で絶えようとしている場合,針してその内を実せしめては,内部の気は更に実してしまう。これだと,針した箇所が実することになるが,針を施したところには何ものかが聚まってくると考えている。補瀉とはその聚まったものをどう処理するかの問題である。

 『太素』九針要解の楊上善注では,『難経』を引いて,五蔵の気が已に内に絶えたとは,腎肝の気を陰と謂い,内に在りとする,そして医が針を用いるのに,反って心肺を実せしめる,心肺は陽であり,陰気が虚して絶すれば,陽気が盛んに実するから,これは実を実せしめ虚を虚せしめることになって,故に死す,という。五蔵の気が外に絶した場合も,これによって類推できる。しかし,これは隋唐の際の楊上善の解釈に過ぎない。

 ここのように単純に「天秤棒の両端に存在する荷と錘」の調節とする説明のほうを採りたい。

2024年1月10日水曜日

黄帝針経の基本としくみ(7)

  気至りて効有り

 「これを刺して気至れば,乃ちこれを去りて,復た針する勿かれ」。

  用いるべきツボを選んで,刺しさえすれば効く,と言う訳にはいかない。気が至らなければ,効果は無い。「気が至る」とは,どういうことか。さてそれは,針医の終生の課題であろうから暫く置くとして,気が至ったら直ちに抜かなければならない。後段に「刺の害は中りて去らざれば則ち精泄れ,中らずして去れば則ち気を致す」とある。針を引くのが遅れて,施術が過剰になることを,より多く嫌う。

二つの段落がもと一つであったのかどうかは定かではないが,「気至りて効有り」という手応えは通底している。また篇首の「微針を以て経脈を通じる」にも叶う。気が至ってこそ,経脈は通じたと認識される。

L09終始にも「いわゆる気至りて効有り」とは,瀉すときは脈の大なることはもとのままでも,堅さがとれ,補すときは脈の大なることはもとのままでも,堅さが益すという。故に曰く,補すときは則ち実し,写すときは則ち虚す,痛み針に随わずといえども必ず衰え去るなり,と。

2024年1月9日火曜日

黄帝針経の基本としくみ(6)

  邪気 濁気 清気

 邪気は上に在り,陥脈に針すれば(これを上に取れば)邪気が出て,濁気は中に在り,中脈に針すれば(陽明の合を取れば)濁気が出て,清気は下に在る。清気についてはどうすればどうなるという記事が無い。かわりに針が深すぎると邪気が反って沈み込むという。

 濁気と清気を対にして論じているのでは無く,邪気と清気で対なのだと思う。つまり邪気は風気でやや敷衍していえば風熱であり,清気は凊湿である。ところで『太素』の楊注では「清は寒気なり,寒湿の気は多くは足より上る,故に下に在るなり」という。また『康熙字典』に「(清は)凊と同じで,寒なり」という。つまり「清気」であっても,寒気であって,風熱の気と対挙しての論と見做せる。

 ここでは小針解に拠って,陥脈と中脈を施術の部位として解釈した。小針解を『針経』を編纂した者の意図として重視したからであるが,実のところ些か心許ない。先にいって小針解にて,「それでも小針解を採りずらい」問題として再度話題にする。


2024年1月8日月曜日

黄帝針経の基本としくみ(5)

  九針

 そもそも,なぜこの九針をここに列挙する必要が有るのか分からない。L01九針十二原篇の九針はみな,針尖を病所に至らせている。「微針を以て経脈を通じる」針法を提唱する書物には相応しくないだろう。L07官針篇の「井滎分輸に取る」の方が,『針経』の編纂意図に叶っている。先にいって改めて解説する。

 『針経』の用針は毫針を主とするが,L75刺節真邪篇に「癰を刺すには鈹針を用い,大を刺すには鋒針を用い,小を刺すには員利針を用い,熱を刺すには鑱針を用い,寒を刺すには毫針を用いる」といい,L22癲狂篇に「内閉じて溲を得ざれば,足少陰と太陽,および骶上を長針を以て刺す」といい,L24厥病篇に「足髀挙ぐ可からざるものは,側してこれを取るに,枢合中に在りて,員利針を以てす」というように名指しで選針することは有る。しかし少ない。『針経』は毫針の経典であるといって,あながち言い過ぎではない。


 毫針と員利針

 微針を以て経脈を通じる針術を発想し,そのための用具として九種の針を用意したとして,実際に上に言ったような補瀉の技法――「速刺徐抜か徐刺速抜か」が可能な針は毫針,もしくは員利針くらいのものであろう。それでは毫針と員利針の違いは何か。

 毫針は法を毫毛に取り,また尖を蚊虻の喙の如くにする。『太素』の豪はヤマアラシであるから,そのトゲはかなり大きく頑丈,したがって我々の想像よりはるかに太いはずという意見が有ったが,文字にとらわれすぎていると思う。蚊虻の喙の如しとか,秋豪の楊注に「謂秋時兔新生豪毛」(秋の時の菟に新たに生じた豪毛を謂う)というのを考えるべきである。『漢辞海』にも「秋になって生え変わった細い毛」という字義を載せている。

 員利針の「大如氂」について,渋江抽斎『霊枢講義』には『説文』を按じて「斄は彊曲の毛で衣に著起できるもの,氂は犛牛の尾」として,二字は同じでは無く,ここでは斄に作るのが本当ではあるが,後世通用しているから,かならずしも改めるにはおよばない,という。斄は犛に従い來(ライ・リ)の声。氂は犛に従い毛(ボウ・モウ)の声,あるいは毛に従い犛(リ)の声。彊曲(硬く巻いた毛.彊は強に通じる)で衣に著起(著は付.起は趨向補語?)できる頑丈な針という点を重視すべきかも知れない。


2024年1月4日木曜日

黄帝針経の基本としくみ(4)

  補瀉

 タイミング

 刺すべきときに刺し,抜くべきときに抜けという。つまりタイミングである。「刺の微は速遅に在り」。荻生徂徠『訳文筌蹄』に,速遅は「ヲソキハヤキノ広キ詞ナリ」とあり,「来コト速シトハ時節ノ後レヌコト」とある。

 「これを迎えこれに随い,意を以てこれを和す。」

 ここで注意すべきことのもう一つは,「迎随」でなく,おおむね「迎追」であること。いや実は文中に「迎之随之,以意和之」ともあり,また後段に「補曰随之」ともある。しかし,これらの句は小針解の対象には成っていない。あるいは編著者による念押し,補筆ではないか。用詞の違いは,筆者の違いである。

 スピード

 「徐にして疾なるときは実し 疾にして徐なるときは虚す。」

 これは針の操作のスピードの問題である。「刺の微は数(数と速は同じ)遅に在りとは,徐疾の意なり。」荻生徂徠『訳文筌蹄』に,徐疾は「ナリフリノ上」といい,「来コト疾シ歩クコト疾シトハアリキブリノ上ヘカカル」と言う。小針解は「徐ろに入れて疾く出す」,「疾く入れて徐に出す」と言う。『素問』針解篇の「徐にして疾なるときは実すとは,徐に針を出して疾くこれを按じ,疾にして徐なるときは虚すとは,疾く針を出して徐にこれを按ず」では,次の段落の意と重なるおそれが有る。

 積極的に奪うか ゆったりと待つか

 「瀉には曰くこれを迎う」,その意味は,必ず堅持して針を入れ,放縦にして針を出す。おしたりあげたりして針を抜けば,邪気は泄れるをうる。

 「補には曰くこれに随う」,その意味は,蚊や虻が止まるように,留まるがごとく還るがごとくこれを忘れるがごとく,行くがごとく悔いるがごとくにする。それでいて,針を去るとなったら絶弦のごとく,左の押手を右の刺し手に続けさせれば,その気はとどまり,外門は閉じ,中気は実する。

 ついで「必ず血を留める無かれ,急に取りてこれを誅せよ」とある。これに対して,渋江抽斎『霊枢講義』は伊沢柏軒(諱は信重,伊沢蘭軒の次男)の「この二句は補法に属さず,けだし上文,宛陳するときは則ちこれを徐くの義,上に必ず脱文有らん」を引くが,誤解であろう。瀉法に「按じて針を引くはこれを内蘊という,血は散ずるを得ず。気は出を得ざるなり」として,為すべからざることを言うように,補法にも「必ず血を留める無かれ,急に取りてこれを誅せよ」と,為すべからざることを言っている。すなわち,瀉法の失敗は内蘊して血は散ずるを得ず,気は散ずるを得ずという情況に陥らせてしまう。補法の失敗は瀉法になってしまうばかりではなく,気を致して癰瘍を為してしまうことも有る。


2024年1月3日水曜日

黄帝針経の基本としくみ(3)

 【九針十二原】

 九針篇と十二原

 篇の初めと中間のみに,黄帝と岐伯の問答がある。本篇は,二大段落からなるとみる。九針の段落と十二原の段落である。前半は針具の形と用途,そして刺す方法を述べる。後半は刺すべきところ,すなわち術を施すべき地を述べる。

 総じて針術の極意,針の道,すなわち天を談る。ゆえに「天に法る」という。

針経の序文

 凡そ書物は最も言いたいことを始めに言う。例えば『甲乙経』の皇甫謐序には「事類をして相い従わしめ,その浮辞を刪り,その重複を除き,その精要を論ず」云々とある。簡潔な書物にするのが最初の目標である。『難経』第一の難には「独り寸口を取って,以って五臓六腑死生吉凶の法を決す」という。つまり,寸口の脈さえ診れば何でも分かるという。

 この『黄帝針経』九針十二原の篇首には,「毒薬を被らせること勿く,砭石を用いること無く,微針を以て,その経脈を通じ,その血気を調え,その逆順出入の会を営らす」治療を宣言している。

 この段落は,首篇の首に在り,『針経』を撰した際の序のごときものである。しかるに『太素』には退いて巻二十一に在ることから,隋唐の際の『太素』の撰注の頃には,序としての性格は,すでに忘れ去られていたと考えられる。また,『甲乙』には無いことから,魏晋の際の『甲乙』の撰集の時には,「経脈を通じさえすれば,病は癒える」という宣言はまだ書かれてなかったのかも知れない。ただ,『甲乙』には通行本『霊枢』の全篇が揃っているわけでは無いから,単に採用されなかっただけかも知れない。

 その租税を収める

 租税は祭祀の糧であるから話題にする。あるいは,上からの養育と下からの孝行の対とする。またあるいは,道教的な政策から儒教的政策への転換の影響も有るかも知れない。漢代随一の名君とされる文帝(倉公のころ)には,皇室に広大な御料地が有ったから可能だったのだが,民を休めると称して税を免除した時期が有ったはず。道家の無為の消極政策である。かっこよさ,華々しさには欠ける。漢代随一の,別傾向の名君とされる武帝(司馬遷のころ)は,積極政策で,対外戦争にも熱心だった。『針経』は、積極政策に転じた後の儒学者の編著したものだろうから,という可能性は有るかも知れない。

 中国は歴代,こぢんまりとした政府による統治を志向する。ごく少数の士大夫による支配。それでは手が回らなくなって胥吏の活躍。仕事が多い割に充分な予算は計上されなかったようなので,だから勢い手数料,口利き料,そして賄賂が横行する。なんのことはない,みかじめ料をはらうか,税金を納めるかの差に過ぎない。税金を徴収するとしても,百姓万民をきちんと慈しみ養っていれば,立派に聖人君主の資格は有るというものである。

 微針をもって経脈を通ず

 古代中国の医家は,身体に異常が起これば,それとは離れた箇所にも反応が発生することを知っていた。診断点である。そこで,此処に診られる異常を治めることによって,彼処の病変も治まるのではないかと期待する。うまくいけば,診断点はすなわち治療点となる。この診断兼治療点と病所との関係が成立するためには,両者を繋ぐものが必要だと考える。この繋ぐものを経脈と称し,此処と彼処の関係が成立することを,経脈が通じたという。病所の代表は五蔵であり,治療点は原穴である。このことについては,先にいってまた改めて述べる。

 神と客と門に在り

 『針経』の根本的な主張は先ず「微針を以て経脈を通じる」ことに拠る治療体系だが,それにもう一つ加えれば,「神乎神,客在門」か「神乎,神客在門」か,の問題が有る。

 渋江抽斎は,「神乎神」というのが甚だ句法に合っていると言い,『素問』八正神明論に「形乎形」という句も有る(「神乎神」も有る)し,第一「神」「門」と「悪知其原」の「原」で韻を踏むと言う。

 私自身も「神乎神」のほうが口調が好いとは思う。しかし考えてみれば,『霊枢』の編纂は第一篇に九針十二原を置いて天に法り(天の道),第二篇に本輸を置いて地に法り(術を施すべき地),第三篇に小針解を置いて人に法る(人による解釈)というのを基本としている。小針解は,九針十二原篇を読み解くための資料として,そこに置かれたはずで,そうであればその編纂の「基本としくみ」は重んぜられるべきである。神と客として,「(内に守る)正気と(外から襲う)邪気」の対照というのが,編集意図の一つだと言いうる。「微針を以て経脈を通じる」療法が,実は『霊枢』で始めて編纂の方針と意識されたことであるのと同様に,「正気と邪気の鬩ぎ合い」をもって病の発生の原因と診ることを,もう一つの旗幟と為している。