【九針十二原】
九針篇と十二原篇
篇の初めと中間のみに,黄帝と岐伯の問答がある。本篇は,二大段落からなるとみる。九針の段落と十二原の段落である。前半は針具の形と用途,そして刺す方法を述べる。後半は刺すべきところ,すなわち術を施すべき地を述べる。
総じて針術の極意,針の道,すなわち天を談る。ゆえに「天に法る」という。
針経の序文
凡そ書物は最も言いたいことを始めに言う。例えば『甲乙経』の皇甫謐序には「事類をして相い従わしめ,その浮辞を刪り,その重複を除き,その精要を論ず」云々とある。簡潔な書物にするのが最初の目標である。『難経』第一の難には「独り寸口を取って,以って五臓六腑死生吉凶の法を決す」という。つまり,寸口の脈さえ診れば何でも分かるという。
この『黄帝針経』九針十二原の篇首には,「毒薬を被らせること勿く,砭石を用いること無く,微針を以て,その経脈を通じ,その血気を調え,その逆順出入の会を営らす」治療を宣言している。
この段落は,首篇の首に在り,『針経』を撰した際の序のごときものである。しかるに『太素』には退いて巻二十一に在ることから,隋唐の際の『太素』の撰注の頃には,序としての性格は,すでに忘れ去られていたと考えられる。また,『甲乙』には無いことから,魏晋の際の『甲乙』の撰集の時には,「経脈を通じさえすれば,病は癒える」という宣言はまだ書かれてなかったのかも知れない。ただ,『甲乙』には通行本『霊枢』の全篇が揃っているわけでは無いから,単に採用されなかっただけかも知れない。
その租税を収める
租税は祭祀の糧であるから話題にする。あるいは,上からの養育と下からの孝行の対とする。またあるいは,道教的な政策から儒教的政策への転換の影響も有るかも知れない。漢代随一の名君とされる文帝(倉公のころ)には,皇室に広大な御料地が有ったから可能だったのだが,民を休めると称して税を免除した時期が有ったはず。道家の無為の消極政策である。かっこよさ,華々しさには欠ける。漢代随一の,別傾向の名君とされる武帝(司馬遷のころ)は,積極政策で,対外戦争にも熱心だった。『針経』は、積極政策に転じた後の儒学者の編著したものだろうから,という可能性は有るかも知れない。
中国は歴代,こぢんまりとした政府による統治を志向する。ごく少数の士大夫による支配。それでは手が回らなくなって胥吏の活躍。仕事が多い割に充分な予算は計上されなかったようなので,だから勢い手数料,口利き料,そして賄賂が横行する。なんのことはない,みかじめ料をはらうか,税金を納めるかの差に過ぎない。税金を徴収するとしても,百姓万民をきちんと慈しみ養っていれば,立派に聖人君主の資格は有るというものである。
微針をもって経脈を通ず
古代中国の医家は,身体に異常が起これば,それとは離れた箇所にも反応が発生することを知っていた。診断点である。そこで,此処に診られる異常を治めることによって,彼処の病変も治まるのではないかと期待する。うまくいけば,診断点はすなわち治療点となる。この診断兼治療点と病所との関係が成立するためには,両者を繋ぐものが必要だと考える。この繋ぐものを経脈と称し,此処と彼処の関係が成立することを,経脈が通じたという。病所の代表は五蔵であり,治療点は原穴である。このことについては,先にいってまた改めて述べる。
神と客と門に在り
『針経』の根本的な主張は先ず「微針を以て経脈を通じる」ことに拠る治療体系だが,それにもう一つ加えれば,「神乎神,客在門」か「神乎,神客在門」か,の問題が有る。
渋江抽斎は,「神乎神」というのが甚だ句法に合っていると言い,『素問』八正神明論に「形乎形」という句も有る(「神乎神」も有る)し,第一「神」「門」と「悪知其原」の「原」で韻を踏むと言う。
私自身も「神乎神」のほうが口調が好いとは思う。しかし考えてみれば,『霊枢』の編纂は第一篇に九針十二原を置いて天に法り(天の道),第二篇に本輸を置いて地に法り(術を施すべき地),第三篇に小針解を置いて人に法る(人による解釈)というのを基本としている。小針解は,九針十二原篇を読み解くための資料として,そこに置かれたはずで,そうであればその編纂の「基本としくみ」は重んぜられるべきである。神と客として,「(内に守る)正気と(外から襲う)邪気」の対照というのが,編集意図の一つだと言いうる。「微針を以て経脈を通じる」療法が,実は『霊枢』で始めて編纂の方針と意識されたことであるのと同様に,「正気と邪気の鬩ぎ合い」をもって病の発生の原因と診ることを,もう一つの旗幟と為している。
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