五蔵の気が内に絶えたか 外に絶えたか
篇首の「微針を以て経脈を通じる」療法は,壁のスイッチを押して,天井の灯りを点すようなものである。
ここの五蔵の気が絶えたことに対する処置はいささか異なる。いってみれば診断兼治療点と病所の関係を天秤棒のようなものとみる。五蔵の気がすでに内で絶えようとしている場合,針してその外を実せしめては,内部の気は重ねて竭してしまう。五蔵の気がすでに外で絶えようとしている場合,針してその内を実せしめては,内部の気は更に実してしまう。これだと,針した箇所が実することになるが,針を施したところには何ものかが聚まってくると考えている。補瀉とはその聚まったものをどう処理するかの問題である。
『太素』九針要解の楊上善注では,『難経』を引いて,五蔵の気が已に内に絶えたとは,腎肝の気を陰と謂い,内に在りとする,そして医が針を用いるのに,反って心肺を実せしめる,心肺は陽であり,陰気が虚して絶すれば,陽気が盛んに実するから,これは実を実せしめ虚を虚せしめることになって,故に死す,という。五蔵の気が外に絶した場合も,これによって類推できる。しかし,これは隋唐の際の楊上善の解釈に過ぎない。
ここのように単純に「天秤棒の両端に存在する荷と錘」の調節とする説明のほうを採りたい。
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