【小針解】
小針解に拠るか 拠らないか
小針解は,編著者によって其処に据えられた解釈である。したがってその言うところには,なるべくなら随いたい。しかし,どうにも随いづらいことも有る。
神客在門
「神乎神客在門」は,「神乎神,客在門」か「神乎,神客在門」か。
渋江抽斎は,「神乎神」というのが甚だ句法に合っていると言い,『素問』八正神明論に「形乎形」という句も有る(「神乎神」も有る)し,第一「神」「門」と「悪知其原」の「原」で韻を踏むと言う。
しかし考えてみれば,『霊枢』の編纂は第一篇に九針十二原を置いて天に法り(天の道),第二篇に本輸を置いて地に法り(術を施すべき地),第三篇に小針解を置いて人に法る(人による解釈)というのを基本としている。小針解は,九針十二原篇を読み解くための資料として,そこに置かれたはずで,そうであればその編纂の「基本としくみ」は重んぜられるべきである。
神と客として,「(内に守る)正気と(外から襲う)邪気」の対照というのも,編集意図の一つだと言いうる。「微針を以て経脈を通じる」療法が,実は『霊枢』で始めて編纂の方針と意識されたのと同様に,「正気と邪気の鬩ぎ合い」をもって病の発生を診ることを,もう一つの旗幟と為していると考えられる。
針陥脈則邪気出 針中脈則濁気出
中国の先生は概ね小針解を採って,「針」を謂語(述語)として,「針を刺す」という意味にとっている。「陥(くぼみの)脈に針するとは,これを上に取るのである」,「中(なかの)脈に針するとは,陽明の合を取るのである」。
しかしこの説には疑問が有る。本来,「針」を主語として,針が脈に陥すれば,針が脈に中れば,針が深すぎると,と統一的な読み方にするのが当たり前だと思う。脹論に「陥于肉肓而中気穴者也」(肉肓に陥して気穴に中るものなり)というのも,陥と中が動詞で謂語(述語)である傍証となるはずである。
奪陰者死
また,「陰を奪われたるのものは死すとは,尺の五里を取りて,五往するものなり」。この小針解自体に問題は無い(仕方が無い)と思う。ただ,小針解の解説に疑問が有る。少なくとも張介賓が「尺の五里とは,尺沢の後の五里なり,手の陽明の経穴,禁刺なり」というのは気に入らない。手の陽明の五里穴がそんなに特別に危険な穴とは思えない。尺の五里を取りて(五蔵に関わる五陰経脈を取って),五往すれば(無闇に何度も取れば)神気が傷なわれるのおそれる,というのが本意だと考える。それで「五脈を取るものは死す」といい,「三陽の脈を取るものは恇(おそ)る」という。
「尺之五里」の尺の字は不審。本輸篇に「陰尺動脈」とあって,「陰之動脈」の誤りではないかと疑った。「尺之五里」は「陰之五里」ではないか。
五蔵之気已絶於内 五蔵之気已絶於外
九針十二原の篇首に「以微針通経脈」とある。微針を施すポイントは原穴であり,上手くいけば病所が反応をおこして,病は癒える。つまり,壁のスイッチを押せば,脈が通じて,天井の灯りが点る。
ここの五蔵の気が絶えたことに対する処置はいささか異なる。いってみれば診断兼治療点と病所の関係は天秤棒のようなものである。五蔵の気がすでに内で絶えようとしている場合,針してその外を実せしめては,内部の気は重ねて竭してしまう。五蔵の気がすでに外で絶えようとしている場合,針してその内を実せしめては,内部の気は更に実してしまう。これだと,針した箇所が実することになるが,針を施したところには何ものかが聚まってくると考えている。補瀉とはその聚まったものをどう処理するかの問題である。九針十二原では,皮膚に熱が在れば速く刺し速く抜いて瀉す。寒が分肉の間に在れば,ゆっくりと冷えの在る深さまで刺し,ゆっくりと針尖に熱気が聚まるのを待ち,熱気を漏らさないように丁寧にゆっくりと抜く。
また『太素』九針要解の楊上善注では,『難経』を引いて,五蔵の気が已に内に絶えたとは,腎肝の気を陰と謂い,内に在りとする,そして医が針を用いるのに,反って心肺を実せしめる,心肺は陽であり,陰気が虚して絶すれば,陽気が盛んに実するから,これは実を実せしめ虚を虚せしめることになって,故に死す,という。五蔵の気が外に絶した場合も,これによって類推できる。しかし,これは隋唐の際の楊上善の解釈に過ぎない。
さらなる考察を要するだろうが,九針十二原の単純に経脈の両端に存在する荷と錘の軽重としたほうが応用が利くように思う。何らかの方法で,例えば天秤棒に掛けた荷を増減させる操作で,スイッチと電灯の間に連絡をつける。小針解の意も,そのようなものと考える。