2026年1月11日日曜日

人の言わざることを敢えて言う

 2026/01/11「資料読解から拓かれる医学古典と歴史研究-テキストに基づく研究成果のこれまでとこれから-」シンポジウム


 始めの一歩

 この世界に足を踏み入れた第一歩からすでに,人の言わざることを敢えて言おうという不遜な志は芽生えていたようだ。それで日本内経医学会への移行の後には,会のBLOGや機関誌,『外経』と名乗った同人誌(実質的には個人誌?)に,随分と雑文を書き散らした。基本的な志向としては,スピリチュアルな説明に安易に納得しないこと。スピリチュアルな説明に反駁しつつ,古典的な針灸を志す,なんてことが可能なのか。可能であると信じる。しかし,しんどい。天人合一と言ったって,天候が好ければ人も朗らかでいられるだろうが,人が朗らかにしていたとしても,それで荒天をどうにかできるわけじゃない……。

 その奇矯なところが出版社の物好きな目にとまったのか,とんとん拍子で『黄帝内経の基本としくみ』の発行にこぎつけた。といっても数年であえなく絶版。残り香として,『針経の基本としくみ』の構成を目指しているが,これは所詮,饅頭本の準備,そう早急にお披露目する気にはならない。

 もう一つの生涯かけての作業は『太素』の校正。こちらも北京の銭超塵教授の『新校正』の出来映えについての反発に始まる。もっとも,いささか期待はずれであった理由のほとんどは,教授が利用した底本資料があまりにもお粗末だったからで,我々が用いる資料なら見ることができる文字が,剥がれていたり,汚れていたりで,判読不能とされる。その点,同情に堪えない。」

 わたしの『新新校正』は修正第五版になったが,これとても完全とは言い難い。ただ生来の怠惰に加えて,近年の精力と視力の衰えのせいで,全巻通しての新たな校正は難しかろう。ご寛容に願いたい。単発の新知見は季刊内経やBLOGに投稿していこうと思う。


 最も言いたいことを先ず言う 序文で宣言する


 第一綱領:以微針通経脈

 『霊枢』九針十二原に,編者による編集意図を陳べた文章が有る。「微針を以て経脈を通じる」ことに拠る治療の提唱である。「経脈が有るから通じさせる」のではない。「通じたから経脈を想定する」のである。したがって,経穴(診断兼治療点)と経脈(仮設の連絡線)の先後を云々するのはナンセンスである。

 遠隔操作を容認すれば,我が党の士である。


第二綱領:神客在門

 「神乎」か,「神乎神」か 古来「神乎神」のほうが受けが良い。しかし,小針解に「神客とは,正邪共に会うなり。神は正気なり,客は邪気なり。在門とは,邪は正気の出入する所を循るなり」という。正(神)と邪(客)がセットになっている。正気が出入りするところに,邪気が割り込んでくる,正気と邪気が鉢合わせている。「神乎神,客在門」ではない。

 なぜ小針解を重視するのか。『霊枢』の編集方針として,第一篇に九針十二原(法天),第二篇に本輸(法地),第三篇に小針解(法人)を置く。小針解は,九針十二原の「基本としくみ」を読み解くための缺くべからざる資料として,そこに据えられたはずである。九針十二原(論文)を読むのではなく,『針経』(経典)を読むべきである。『霊枢』(『針経』)の編集意図を汲むのであれば当然そうあるべきである。


寸口主中 人迎主外

 神客,正邪,中外などのセットが,『霊枢』では基本的なしくみになっている。

 『霊枢』の脈診は人迎脈口診であると言われるが,実は4種の人迎脈口診が有る。

  五色:人迎(外形)脈口(飲食)

  禁服:人迎(外)寸口(中)  人迎と寸口の比較

  終始:人迎や寸口が普段より何倍大きいか

  経脈:人迎と寸口を比較して何倍大きいか

 もともとは両者を比較して,病脈を診定する方法ではない。五色の人迎で外形を,脈口で飲食を診るのが本来の姿だろう。


 針陥脈則邪気出 針中脈則濁気出

 小針解で「これを上に取る」とか,「これを陽明の合に取る」とか言われては困る。針陥脈,針中脈ときて,針大深則邪気反沈と言われても,別に新たな「しくみ」が導き出されるわけでは無さそうである。従って小針解の見解を全面的に適用するのには些か及び腰になる。

3 件のコメント:

  1. ChatGPT問答

    ChatGPTへの質問
    霊枢九針十二原篇に「神乎神客在門」とあって,小針解篇に「神客とは,正邪共に会うなり。神は正気なり,客は邪気なり」と言うからには,「神乎,神客在門」と句読すべきだろう。

    ChatGPTからの回答
    ご指摘のとおり、その理解は文理・義理の両面からきわめて妥当だと思われます。
    結論から言えば、
    「神乎,神客在門」
    と句読すべきだ、というあなたの判断には強い根拠があります。
    ① 文法・語法の観点
    「乎」は『霊枢』において、しばしば感嘆・詠嘆・評語的転換を示す語として用いられます。
    したがって、
    神乎:
    「神なるかな」「まことに神妙であることよ」
    という一種の感嘆句として独立させるのが自然です。
    これを続けて
    神客在門
    と置くことで、「神と客(正気と邪気)がともに門に在る」という具体的状況説明に移行します。
    ② 小針解篇による注解との整合性
    あなたが引用された小針解篇の
    神客とは,正邪共に会うなり。神は正気なり,客は邪気なり
    という定義は決定的です。
    もし
    神乎神客在門
    を一続きに読んでしまうと、
    「神客」という複合語の意味
    「神乎」の位置づけ
    が曖昧になります。
    しかし
    「神乎,神客在門」
    と区切れば、
    神妙なる状態であることをまず感嘆的に提示し
    その内実として「神(正気)と客(邪気)が門に会している」
    すなわち、正邪が争う臨界点であること
    が極めて明瞭になります。
    ③ 医理的含意
    「門」は経脈・腧穴、あるいは人体の要衝を指し、
    神(正気)が守り
    客(邪気)が侵入する
    攻防の最前線です。
    ここで「神乎」と詠嘆するのは、
    刺鍼の可否
    補瀉の判断
    術者の精神集中(守神)
    が極度に要求される局面であることを示す、九針十二原篇らしい表現と言えます。
    ④ 総括
    したがって、
    文法的にも
    注解(小針解篇)的にも
    医理的にも
    「神乎,神客在門」
    という句読はきわめて合理的であり、むしろこの篇の思想構造を最もよく表す読み方だと言えるでしょう。
    この一箇所に、
    「守神」「正邪」「門」「刺の可否」
    という『霊枢』の核心が凝縮されていますね。

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  2. 本当は,『霊枢』編纂のときに新たに加わった,九針十二原を解釈した小針解に拠れば,ということで,新たな解釈だと主張しています。編纂物としての『霊枢』を読むからには,それに従うべきだと……。

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  3. 『素問』八正神明論には「形乎形」という句も,「神乎神」という句も有る。

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