【黄帝針経とは何か】
黄帝とは誰か
宮中図書の三派の医経
秦の始皇帝は書物を焚いた。医学書は例外だったと言われるが,考えてみれば医経には思想書としての性格もかなり強い。邪推されて焚かれたものも多かったのではないか。
劉氏の漢になって,書物の探索が盛んになって,宮中の蔵書が豊富になってくると,今度は整理の必要が生じてくる。前漢末の劉向・劉歆による図書整理では,医学関係は方伎とされ,侍医の李柱国が担当した。中で経典著作は黄帝内・外経,扁鵲内・外経,白氏内・外経そして旁篇とされる。これはつまり古代医学界に三大派閥が有ったということである。では,最初に名を得たのは何処の医学だったのか。
医は東方より 最初の偶像 扁鵲
『春秋左氏伝』に,大国である晋の王が病んで,西の新興国である秦の医緩を招くという話がある。王の夢に病の精が童子となって現れて,「名医が来るから無事にはすむまいぞ」,「いやいや膏と肓の間に隠れればなんということも無いさ」,というような会話が有ったという。どうして大国の晋が小国の秦に頼ったのか。先進国に新しい医学が生れるのではなくて,後進国に古い医術が残っているという期待のほうが大きかったのかも知れない。
時を経て,おおよそ戦国時代の半ばに,東の扁鵲が登場する。個人ではなくて遍歴医のグループであったという説もあるけれど,司馬遷の『史記』では渤海郡の人である。渤海は遼東半島と山東半島に挟まれる海で,渤海郡はその沿岸,斉の北に接している地域である。扁鵲は東方から起こり,邯鄲、洛陽を過り,咸陽に入って,秦の太医令・李醘に嫉妬されて暗殺された。また『史記』に伝のあるもう一人の淳于意も斉の人である。当時の医学界は東が優勢であったらしい。近年出土の成都の天回鎮・老官山の医生も東方からの移住者と聞いてる。
新しい偶像 黄帝の名の下で
それでは黄帝伝説はどこから生じたのか。黄帝は漢代に登場した全国レベルの,全分野にわたる新しい偶像である。これには司馬遷の『史記』も関わっているようで,五帝本紀を『史記』本紀の首として,黄帝を五帝の首としている。乃ち徳を修め兵を振え,五気を治め,五種を芸え,万民を撫で,四方を度り,熊・羆・貔・貅・貙・虎に教え,以て炎帝と戦い,蚩尤を禽にした。つまり,ことさらに古きをたづねたばかりではなく,新しい学術を興す象徴とした。
そこで医学界でも,理論創新には黄帝派を標榜したのではなかろうか。つまり,新たな学術を振興するに際して,旗標として古い聖王を担ぎ出した。そうして,黄帝派には東の扁鵲派は勿論,南北の医術が輯合されたと思われる。
白氏はどうなったのか
秦の医学はどうなったのか。漢の黄帝,斉の扁鵲だとしたら,秦は白氏ではないか。白氏の白は岐伯の伯と説いた人も有る。
『素問』でも『霊枢』でも,多くは黄帝が質問者で,岐伯(宝鶏市の岐山の麓から出た)が回答者ということは,黄帝(新しい偶像)の名の下で編纂はなされたが,材料の多くは関中(秦,西方)の遺産だったということなのかも知れない。実質的に,漢代の医経は西の医学の復活,という状況で成立した,と言えなくも無かろう。
東西の角逐
始皇帝の帝国の跡目を争ったのは,楚の項羽と漢の劉邦であるが,実は劉氏も楚人であった。劉邦は封地の漢中から関中に入って,秦を継承したものとして,楚の項羽に対抗した。
さらにまた呂后の暴政の後の皇帝には,北の僻地の代王が選ばれ,東方の大国である斉王は敬遠された。斉の外戚の駟氏では,呂氏の二の舞になる恐れが有った。
西の漢帝と,東の斉王は緊張状態にあって,それで淳于意は仮想敵国の王の側近として尋問されたのでは無いか。淳于意の医学(黄帝・扁鵲の脈書)は,最初はさほど注目されてなかったらしい。診籍の中身も,ほとんどが斉国内の治療実績である。後には伝承していた医学の価値が分かって,慌てて詔問された。それで,尋問と詔問の間に数年のタイムラグがある。
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