2026年1月17日土曜日

2026/01/18

BLOG渾敦は黄帝針経講座摘要・黄帝針経の基本としくみ を保存する目的で設けました。しかし,この種の設けは絶え間ない更新を必要とします。そこで度々更新します。今見ているものは2026/01/18更新の一応最新版です。次回のまとまった更新目標は2026/09/07です。

 

黄帝針経講座摘要

第一册 先立針経

 

 

 

 

 

 

 

渾 敦 叢 書


 

 

 

黄帝針経の基本としくみ

 

 『針経』を読解できたら,一応の臨床はできるのではないか?

 いやなに,それ以上はもう,患者の身体を撫で回し,捜り回している方が,好いのではなかろうか,と言うほどの意味なんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神麹斎こと左合昌美

suiranruci@gmail.com


目録

 

前言

 

九針十二原第一  法天

本輸第二     法地

小針解第三    法人

邪気蔵府病形第四 法時

根結第五     法音

寿夭剛柔第六   法律

官針第七     法星

本神第八     法風

終始第九     法野

 

結語

附録 井上雅文先生方式の人迎脈口診

 


 

前言

 

黄帝針経とは何か

 勿論,皆さんが普通に『霊枢』と呼んでいる,あの本のことですよ。

最初は分量が巻物で九つだったから「九巻」。でもこんなものは完成した書籍に命ずる名前じゃない。未定稿に対する,取り敢えずの呼び方です。とは言え,隋末唐初の『太素』楊上善注でも『九巻』。次いで針術の為の経典という意味の普通名詞として「針経」。晋の『甲乙経』では,皇甫謐序には「黄帝内経十八巻,今素問九巻,針経九巻有り,二九十八巻,即ち内経なり」と言いながら,経文と目される大字引文でも「素問曰」「九巻曰」です。唐の『素問』王冰注でやっと『霊枢経』という名が現れて,その間,『九墟』『九霊』などという道教臭い名前がいくつか登場しましたが,『霊枢』や『素問』もその例の一つでしょう。

 

なぜ黄帝

 秦の始皇帝は書物を焚いた。医学書は例外だったと言われるが,考えてみれば医経には思想書としての性格もかなり強い。邪推されて焚かれたものも多かったのではないか。

 劉氏の漢になって,書物の探索が盛んになって,宮中の蔵書が豊富になってくると,今度は整理の必要が生じてくる。前漢末の劉向・劉歆による図書整理では,医学関係は方伎とされ,中で経典著作は黄帝内・外経,扁鵲内・外経,白氏内・外経そして旁篇とされる。これはつまり古代医学界に三大派閥が有ったということである。では,最初に名を得たのは何処の医学だったのか。

 『春秋左氏伝』に,大国である晋の王が病んで,西の新興国である秦の医緩を招くという話がある。王の夢に病の精が童子となって現れて,「名医が来るから無事にはすむまいぞ」,「いやいや膏と肓の間に隠れればなんということも無いさ」,というような会話が有ったという。どうして大国の晋が小国の秦に頼ったのか。先進国に新しい医学が生れるのではなくて,後進国に古い医術が残っているという期待のほうが大きかったのかも知れない。

 時を経て,おおよそ戦国時代の半ばに,東の扁鵲が登場する。個人ではなくて遍歴医のグループであったという説もあるけれど,司馬遷の『史記』では渤海郡の人である。渤海は遼東半島と山東半島に挟まれる海で,渤海郡はその沿岸,斉の北に接している地域である。扁鵲は東方から起こり,邯鄲、洛陽を過り,咸陽に入って,秦の太医令・李醘に嫉妬されて暗殺された。また『史記』に伝のあるもう一人の淳于意も斉の人である。当時の医学界は東が優勢であったらしい。近年出土の成都の天回鎮・老官山の医生も東方からの移住者と聞いてる。

 それでは黄帝伝説はどこから生じたのか。故郷は河南省の鄭州付近,昇仙したのは安徽省の黄山から,廟は陝西省延安市の黄陵県に在る。つまり,どこでも黄帝である。そこで,医学界も,理論創新には黄帝派を標榜したのではなかろうか。

 秦の医学はどうなったのか。漢の黄帝,斉の扁鵲だとしたら,秦は白氏ではないか。白氏の白は岐伯の伯と説いた人も有るらしい。『素問』でも『霊枢』でも,多くは黄帝が質問者で,岐伯(宝鶏市の岐山の麓から出た)が解答者ということは,黄帝(新しい偶像)の名の下で編纂はなされたが,材料の多くは関中(秦,西方)の遺産だったということなのかも知れない。実質的に,漢代の医経は西の医学の復活,という状況で成立した,と言えなくも無かろう。

 

西の秦漢と東の斉の対抗

 始皇帝の帝国の跡目を争ったのは,楚の項羽と漢の劉邦であるが,実は劉氏も楚人であった。劉邦は封地の漢中から関中に入って,秦を継承したものとして,楚の項羽に対抗した。

 さらにまた呂后の暴政の後の皇帝には,北の僻地の代王が選ばれ,東方の大国である斉王は敬遠された。斉の外戚の駟氏では,呂氏の二の舞になる恐れが有った。

 西の漢帝と,東の斉王は緊張状態にあって,それで淳于意は仮想敵国の王の側近として尋問されたのでは無いか。淳于意の医学(黄帝・扁鵲の脈書)は,最初はさほど注目されてなかったらしい。診籍の中身も,ほとんどが斉国内の治療実績である。後には伝承していた医学の価値が分かって,慌てて詔問された。それで,尋問と詔問の間に数年のタイムラグがある。

 

なぜ針経

 医学に限らず,何らかの議論をふっかけようとする文章は,最初は個々の論文として著される。それらを補強したり,反駁したりする文章が積み重なって,議論の傾向とか時代とかによって整理されれば,いくつかの論文集となる。例えば,『素問』の全元起本の八巻などは,時代別になっているらしい。劉向・劉歆による宮中図書の整理も,そうした意味の論文集と見ていいだろう。

 宮中図書の整理がなって,医経という書籍群が存在してみれば,一歩進んでそれらを用いた新しい理論体系を構築したいと考えるものが登場するのも当然である。そうした書物は「針」術の為の「経」典という性格を明らかにしたものとなり,また新しい医学のシンボル「黄帝」を冠しようとするものも出てくる。ただ,その現状から判断して,整理は不十分で,辻褄が合わない箇所も少なく無い。編者は何らかの事件に巻き込まれて,編纂の事業を完遂できなかったのではないか。つまり,我々の眼前に在るものは,実は未定稿に過ぎないのではないか。新たに経典を編むべく材料を集めて配置はしたものの,理論のすり合わせ,文字の調整などをする暇は無かった,と想定する。故に大胆に,あるべき姿をさぐりつつ読む必要もある。

 しかるに昔の中国人の伝統観念に照らせば,ある文献が「経」と称された後には,ほとんど神聖にして冒すべからざるものとなって,もう直接手を加えることは難しい。唐の楊玄操の『難経』,晋の皇甫謐の『甲乙経』,いずれにも似たような事情は有っただろう。そして漢の誰かの『黄帝針経』にも。

 書名についてもう一つ,北宋が佚書を周辺国に求めたとき,高麗から献上されたのは『黄帝針経』だった。それなのに,名を改めて出版したのは,政敵の業績とされるのを嫌ったためとか,中華に無くなった書物が東夷に残っていたというのも悔しいからとか,かなり下品な説明が有る。

 また,南宋の王応麟『玉海』には,九針十二原を首篇とするのは『針経』とある。『霊枢』は精気篇。『甲乙経』の別本の中に,首篇を精気五臓とするものが有る。あるいは『針経』と『甲乙経』が針術の経典として併行していたのかも知れない。

 九針十二原を首篇とするのが『針経』であり,第三篇に小針解を置く。『太素』では相当する篇が第21巻に逐いやられ,『甲乙』いは相当する文章がそもそも存在しない。『針経』、『太素』、『甲乙』の成立順序を考えるうえで,幾らか参考となろう。

 

撰者は誰か

 北京の黄龍祥氏は,想定される時期に,資料(論文集)を見る機会と,理論(経典)創新の能力を兼ね備えていたのは,劉向・劉歆父子の宮中方技書の整理に協力したという,和帝の侍医・李柱国もしくはその伝人くらいしか候補者は無かろうという。あるいはそうかも知れない。

 

経典として読む

 『針経』は経典であり,「微針を以て経脈を通じる」ことに拠る治療を掲げて編纂されたものである。『針経』におけるこうした主張に基づいて,資料として経脈学説を置き,さらに後ろに各家の論文を積んで,併せて『霊枢』とした。

 一つの主張を基として,「一に始まり,九に終わる」ものである。従って,「内経選読」などとは,元々「無理」なことである。

 

テキスト

 底本:明・無名氏仿宋本『霊枢』

 校本:明・趙府居敬堂本『霊枢』

    仁和寺本『太素』

 

参考書

 現存最古の注釈     『太素』楊上善注

 より堅実な…… 渋江抽斎『霊枢講義』   

 より大胆な…… 郭靄春 『霊枢経校注語訳』

 

中国古代医学はフィクションである

 中国古代医学がフィクションであることの意義を,AIに問うてみたところ,まとまった見解はまだ無いようではあるが,患者の「治るんだ」という覚悟と,治療家の「治すんだという」という信念が,治療効果に良い影響をもたらす可能性は充分有ると,答えが有った。

 もう一つ想うに,頼りない想いつきであれ何であれ,とりあえずフィクションに随って施術してみる。望むほどの効果が無ければ,フィクションを少しく修正して,再試行してみる。案外,こうした試行錯誤が,理想の治療にたどり着くための,最短の途なのではあるまいか。


 

九針十二原篇第一 法天

 

 篇の初めと中間のみに,黄帝と岐伯の問答の辞がある。したがって本篇は,二大段落からなるとみる。九針の段落と十二原の段落である。前半は針具の形と用途,そして刺す方法を述べる。後半は刺すべきところ,すなわち術を施すべき地を述べる。

 総じて針術の極意,針の道,すなわち天を談る。ゆえに「天に法る」という。

 

微針を以て経脈を通じる

 凡そ書物は最も言いたいことを先ず言う。

 九針十二原の篇首に,小針解の対象になっていない段落が有る。つまり,編者の自筆になると思われる文章である。そこで先ず『針経』編纂の意図が語られる。毒薬を服用させること勿く,砭石を用いて切開すること無く,「微針を以て経脈を通じる」ことによって,その血気を調え,その逆順出入の会を営らすと言う。あるいは現代の針灸師,ひょっとすると患者さんにも,病所と施術ポイントが異なり,その間を経脈が連絡しているというのは,当たり前と感じられるかも知れない。でも実は,この『針経』の序で宣言されたことが,その始まりであるのかも知れない。

 微針は後段の九針の中では毫針を指すと考える。用語が異なるのは原資料の著者が異なるからである。

 

先ず針経を立てん

 医学に限らず,何らかの議論をふっかけようとする文章は,最初は個々の論文として著される。それらを補強したり,反駁したりする文章が積み重なって,議論の傾向とか時代とかによって整理されれば,いくつかの論文集となる。劉向・劉歆による宮中図書の整理も,そうした意味での論文集と見ていいだろう。

 宮中図書の整理がなって,「医経」という名の論文集が存在してみれば,一歩進んで,それらを用いて新しい理論体系を構築したい,と考えるものが登場するのも当然である。そうした書物は「針」術の為の「経」典という性格を明らかにしたものとなる。ここでいう経典とは,一つの綱領を立てて,それに基づいて,一派の学術を領導しようとする書物のことである。

 黄帝曰く,「その篇章を異にし,その表裏を別ち,これが終始を為り,おのおの形有らしめ,先ず『針経』を立てん」と。岐伯曰く,「綱紀有らしめ,一に始まり九に終わらん」と。

 

神と客と門に在り

 『針経』の根本的な主張は先ず「微針を以て経脈を通じる」ことに拠る治療体系だが,それにもう一つ加えれば,「神乎神,客在門」か「神乎,神客在門」か,の問題。

 渋江抽斎は,「神乎神」というのが甚だ句法に合っていると言い,『素問』八正神明論に「形乎形」という句も有る(「神乎神」も有る)し,第一「神」「門」と「悪知其原」の「原」で韻を踏むと言う。

 私自身も「神乎神」のほうが口調が好いとは思う。しかし考えてみれば,『霊枢』の編纂は第一篇に九針十二原を置いて天に法り(天の道),第二篇に本輸を置いて地に法り(術を施すべき地),第三篇に小針解を置いて人に法る(人による解釈)というのを基本としている。小針解は,九針十二原篇を読み解くための資料として,そこに置かれたはずで,そうであればその編纂の「基本としくみ」は重んぜられるべきである。神と客として,「(内に守る)正気と(外から襲う)邪気」の対照というのが,編集意図の一つだと言いうる。「微針を以て経脈を通じる」療法が,実は『霊枢』で始めて編纂の方針と意識されたのと同様に,「正気と邪気の鬩ぎ合い」をもって病の発生を診ることを,もう一つの旗幟と為していると思う。

 

来るものは迎えるなかれ 往くものは追うなかれ

 これはタイミングの問題である。「不可迎」を『霊枢』には「不可逢」に作るが,『太素』に拠って改めた。

 刺すべきときに刺し,抜くべきときに抜けという。「刺の微は速遅に在り」。荻生徂徠『訳文筌蹄』に,速遅は「ヲソキハヤキノ広キ詞ナリ」とあり,「来コト速シトハ時節ノ後レヌコト」とある。

 

徐にして疾なるときは実し 疾にして徐なるときは虚す

 これは操作のスピードの問題である。「刺の微は数(数と速は同じ)遅に在りとは,徐疾の意なり」。荻生徂徠『訳文筌蹄』に,徐疾は「ナリフリノ上」といい,「来コト疾シ歩クコト疾シトハアリキブリノ上ヘカカル」と言う。小針解は「徐ろに入れて疾く出す」,「疾く入れて徐に出す」と言う。『素問』針解篇の「徐にして疾なるときは実すとは,徐に針を出して疾くこれを按じ,疾にして徐なるときは虚すとは,疾く針を出して徐にこれを按ず」では,次の段落の意と重なるおそれが有る。

 

瀉には曰く迎 補には曰く随

 補瀉を説く段落の内,小針解に解が無いものは,これも編纂者の自筆の部分ではないか。補瀉の第一段の末尾「迎之随之,以意和之,針道畢矣」と第三段は小針解に解が無い。かつ第一段では「迎」と「追」の対だが,第三段では「迎」と「随」の対になっている。

 要は瀉法では積極的に奪いにいけ,補法では気長に待て,術者の思い通りにはいかないと言っている。

 

必ず血を留める無かれ

 「必ず血を留める無かれ,急に取りてこれを誅せよ」に対して,渋江抽斎『霊枢講義』は伊沢柏軒(諱は信重,伊沢蘭軒の次男)の「この二句は補法に属さず,けだし上文,宛陳するときは則ちこれを徐くの義,上に必ず脱文有らん」を引くが,誤解であろう。瀉法にいう「按じて針を引くはこれを内温という,血は散ずるを得ず。気は出を得ざるなり」も,補法にいう「必ず血を留める無かれ,急に取りてこれを誅せよ」も,為すべからざることを言っている。すなわち,瀉法の失敗は内温して血は散ずるを得ず,気は散ずるを得ずという情況に陥らせてしまう。補法の失敗は瀉法になってしまうばかりではなく,気を致して癰瘍を為してしまうことも有る。

 

九針の名 おのおの形同じからず

 そもそも,なぜこの九針をここに列挙する必要が有るのかが分からない。九針十二原篇の九針はみな,針尖を病所に至らせている。「微針を以て経脈を通じる」針法を提唱する書物には相応しくないだろう。

 鑱針:法を布針(L78九針論では巾針)に取るというが,その布針が分からない。裁縫道具のヘラであれば,元・杜思敬遠『針経適英集』,明・馬蒔の『霊枢註証発微』の図がそれである。また,『霊枢識』の「犁鉄なり」は『広韻』からの引用らしく,さして古いものではなさそうだが,画像資料を探ると犂の金属部分はやはりヘラの形に似る。あるいは肌肉を犂で耕すというイメージなのかも知れない。長さは一寸六分(37mm),その末の10mmほどを研いで鋭くしてあるらしい。布銭の形ではないかという説は取らない。他文例は「法を何かの為の針に取る」であって,「法を何かのような形の針に取る」ではない。体表の熱を写す。ゆえに皮膚が白いのは対象外とする。寒を刺すには毫針を用い,熱を刺すには鑱針を用いる。現代中国の模型が概ね箭頭であるのは解し難いが,単純な農具としてのスキなら似ているかも知れない。

 員針:法を絮針に取る。この絮針も分からない。絮は古くなった屑綿であるから,それをほぐすための針であろうか。その身を筒にして鋒を卵形にする。その身を筒にするとか,法を絮針に取るとかは,鋒針も同じで,大針にも鋒針に法るという。長さは一寸六分(37mm)。分肉の間をさすって,肌を傷つけずに気を写す。

 鍉針:法を黍粟のような兌(鋭,エイ)に取る。イネ科の芒はかなり鋭い。そこで,鍉針の尖端も,何となくイメージしているより,うんと鋭い可能性を考えたこともあるが,やはり爪楊枝のような針の先にキビやアワのような粒が付くのだろう。多紀元簡の鍉とは「鏑なり,箭簇なり」も,大きさに違いは有るが,言わんとする形象は似たようなものだろう。兌(エツ,ダ、タイ、エイ)には,真っ直ぐ伸びたさまという意味もある。長さは三寸半(80mm)。用途は脈に気が少なく当然補うべきものを補う。

 鋒針:員針と同じく法を絮針に取り,その身を筒にする。ただその鋒を鋭く参隅にする。参には,交錯するという意味もある。長さは一寸六分(37mm)。S23熱病によれば,鋒針がより古代の針法の主流だったのかも知れない。小を刺すには員利針を用い,大を刺すに鋒針を用いる。

 鈹針:『霊枢』は「鈹」に,『太素』は「䤵」に作る。法を剣鋒に取り,広さ二分半(6mm),長四寸(92mm)。大癰膿を主る。これはもう外科のメスであって,我々現代日本の針灸師には関わり無い。

 員利針:法を氂に取る。氂は犛牛(ヤク)の尾。尖は氂の如く,かつ円かつ鋭で,中身はやや大という。その末はわずかに大きく,その本は反って小さいから,深くは内らない。長さは一寸六分(37mm)。ヤクの尾のようなとは,古代中国の旗につけて飾りにした長くて細い毛ということだろう。用途は,痺気の暴発を取るのを主とする。その他,L26雑病に犢鼻を刺すのに員利針を用いるといい,その理由を「針大なること氂のごとし」は,細いと言いたいのだろう。ただし渋江抽斎『霊枢講義』には『説文』を按じて,「斄(リ・ライ・タイ)は彊曲の毛で衣に著起できるもの,氂(リ・ボウ・モウ)は犛牛の尾」といい,二字は同じでは無く,ここでは斄に作るのが本当ではあるが,後世通用しているから,かならずしも改めるにはおよばない,という。

 毫針:『霊枢』は毫,『太素』は豪で,細長くて毛先の鋭い毛の意味において通じる。九針所象の楊上善注に「豪針の状,尖は蚊虻の喙の如し」とある。静かに入れて徐ろに進め,久しく留めて,痛痺を取る。また熱に鑱針を用いるのに対して,寒を刺すのには毫針を用いる。毫針を用いるのが『針経』の主流である。長さは一寸六分(37mm)。中国・南昌にある前漢の諸侯墓,海昏侯劉賀墓から出土した鉄針は,ほぼ間違いなく医療用器具であり,その断面の直径は0.30.5mmと報告されている。してみると,『針経』成立当時,すでに相当に微細な針の製造.実用が可能であったと考えられる。(現在,日本では8番,直径0.3mmでも,かなり太いと認識される。)

 前段の徐疾の補瀉に適した針は,毫針くらいのものである。員利針や長針でも可能かも知れないが,わざわざ誂えるほどのことは無さそうに思う。

 長針:法を綦針に取る。綦には靴の紐という意味があるから平たいのかも知れない。そうならば,身は博あるいは薄とするのがいいだろう。鋒はするどくする。とびぬけて長く七寸(161mm)。深邪遠痺を取る。

 大針:法を鋒針に取る,ということは,またつまり法を絮針に取る。尖は梃(つえ)の如く,わずかに円とする。長さは四寸(92mm)。関節を通じ無い(水腫の)水あるいは大気を写す。また大針を火針の誤りとする説が有る。元・杜子敬『針経摘英集』ですでに燔針とし,一名を焠針といい,明・徐春甫『古今医統』,明・楊継洲『針灸大成』は 火針とし,一名を燔針という。L07官針の九刺にも焠刺,燔針があり,痺を取る。

 『針経』の用針は毫針を主とするが,刺節真邪篇に「癰を刺すには鈹針を用い,大を刺すには鋒針を用い,小を刺すには員利針を用い,熱を刺すには鑱針を用い,寒を刺すには毫針を用いる」といい(五針?),癲狂篇に「内閉じて溲を得ざれば,足少陰と太陽,および骶上を長針を以て刺す」といい,厥病篇に「足髀挙ぐ可からざるものは,側してこれを取るに,枢合中に在りて,員利針を以てす」というように名指しで選針することは有る。しかし少ない。『針経』は毫針の経典であるといって,あながち言い過ぎでは無いと考える。

 

 1968年に前漢の劉勝の墓から出土した金針の長さは6.56.9cmと報告されている。その数値は『霊枢』九針十二原や九針論のものとかなり違う。実物を重視すれば,経典著作の権威を失墜させかねないが,現代の治療家からすれば3.7cmは短すぎる。太さは写真から推定するに,あまりにも太い。技術の限界だったかも知れないが,金縷玉衣から推せば,古人を見くびり過ぎているかも知れない。尖を蚊虻の喙の如くにするといえば,もう少しは努力はしただろう。太い金製のものだけが残ったのかも知れない。埋葬用には,普通より太いもの(鍉針、鋒針、大針etc.)を用意したかも知れないし鉄製のものは錆びるか溶けるかで伝わらなかっただけかも知れない。また想像を逞しくすれば,当時の医者もなけなしの家業の道具,一種の看板として,数本の金針を後生大事に抱えていたのかも知れない。扁鵲も治療の前に,用いる針を施術の直前に砥がせている。もつとも鈹針などは青銅製だったかも知れない。古代の名剣と言われるものは概ね青銅剣であった。

 

針が脈に陥すれば 針が脈に中れば

 邪気は,風邪の気,陽だから,頭項から入って身体の上部,表層に在る。濁気は水穀に由来して腸胃に溜滞し,中層に停まる。凊気は,湿の気で,足から入って,身体の下部に留まる。対処法としては,「針陥脈」すれば邪気が出,「針中脈」すれば濁気が出るという。凊気への対処法は省略されている。

 ところで,「針陥脈則邪気出,針中脈則濁気出」を,中国の先生は概ね「針」を謂語(述語)として,「針を刺す」という意味にとっている。陥(くぼみの)脈に針する,中(なかの)脈に針する。これは小針解を参考にしているのだろうが,針陥脈を「これを陥脈=上に取る」というのはまあなんとか同意するとしても,針中脈を「これを中脈=陽明の合に取るなり」と解されては,いささか途惑う。

 本来は,「針」を主語として,針が脈に陥すれば,針が脈に中れば,針が深すぎると,と統一的な読み方にするのが当たり前であろう。 L35脹論に「陥于肉肓而中気穴者也」(肉肓に陥して気穴に中るものなり)というのも,陥と中が動詞である傍証となる。要は入れる深さの違いで反応が異なる,というのが原義であろう。病にはそれぞれ在りがちな深さがある。邪気が皮肉に在れば,浅く刺し,濁気(穀気)がやや深く筋脈に在れば,やや深く刺す。「針大深」は,本来深く刺すべきでないときに深く刺すということか,もしくは三刺よりさらに深いのであろう。これは針の深度が不適切な場合の害である。

 

五脈を取るものは死す

 小針解に「奪陰者死(陰を奪われたるのものは死す)とは,尺の五里を取りて,五往するものなり」という。この小針解自体に問題は無い(仕方が無い)と思う。ただ,小針解を解説する文章に疑問が有る。少なくとも張介賓が「尺の五里とは,尺沢の後の五里なり,手の陽明の経穴,禁刺なり」というのは気に入らない。手の陽明の五里穴がそんなに特別に危険な穴とは思えない。尺の五里を取りて(五蔵に関わる五陰経脈を取って),五往すれば(無闇に何度も取れば)神気が傷なわれるのおそれる,というのが本意だと考える。それで「五脈を取るものは死す」といい,「三陽の脈を取るものは恇(おそ)る」という。そもそも『素問』『霊枢』では概ね,五脈といえば五蔵の脈,三脈といえば陽明、太陽、少陽の脈である。

 

その色を覩て その邪正を知る

 L03小針解では,「覩其色,察其目,知其散復,一其形,聴其動静」とは何か,「知其邪正」とは何かをいう。L19四時気では,「覩其色,察其目,知其散復」とは,その目の色を視て,以て病の存亡を知る。「一其形,聴其動静」とは,気口人迎を持して,以てその脈の動を聴く。その脈の堅なるもので,かつ盛かつ滑なるものは病日に進み,脈軟なるものは病まさに下り,諸経実するものは病三日に已える。気口では陰を候い,人迎では陽を候う。

 

五蔵の気が内に絶えたか 外に絶えたか

 五蔵の気がすでに内で絶えようとしている場合,針してその外を実せしめては,内部の気は重ねて竭してしまう。五蔵の気がすでに外で絶えようとしている場合,針してその内を実せしめては,内部の気は更に実してしまう。これだと,針した箇所が実することになるが,針術を施したところには何ものかが聚まってくると考えているのだろう。天秤棒の荷と錘の関係である。荷と錘の釣り合いを敢えて互えれば,天秤棒に傾斜を生じて,つまり経脈の気の多少差が生じて,経気が流れて,通じる。

 

五蔵の診断兼治療点

 原穴は微針でもって術を施すべきポイントであり,五蔵は経脈を通じた先の病所である。膈以上の陽中に心と肺が在り,五蔵の陰陽から心は太陽,肺は少陰である。膈以下の陰中に脾と肝と腎が在り,五蔵の陰陽から肝は少陽,腎は太陰である。脾は中央の至陰である。所属経脈の陰陽とは関わらない。

 五蔵の診断点(原穴)がいきなり腕踵関節に想定されるわけは無い。やはり直下の奥に五蔵が在ると想定した(背腧篇の)背腧が,診断点であり治療点であることの始まりだったのだろう。『針経』の配穴例の多くが挟み撃ちであることからすれば,原穴と背輸という二様の治療点を接続して,五蔵を治療するという思いつきは正統的と言える。

 原穴と病所の関係は,天秤棒の荷と錘の釣り合わせの他に,壁のスイッチを押せば,天井の灯りが点るようなものもある,ということかも知れない。

 

膏の原 肓の原

 五蔵の原は左右に二つずつで併せて十,残りの二つは膏の原と肓の原である。膏の原と肓の原の実際は何か。四時気篇には,邪が大腸に在れば「肓の原,巨虚上廉,三里を刺す」とあり,邪が小腸に在れば「これを肓の原に取る」とあり,「巨虚下廉を取って,以ってこれを去る」とある。しかし,大腸でも小腸でも肓の原というのはおかしい。実は『太素』では,大腸の方は「賁の原」を刺すことになっている。そして楊注に「賁は,膈なり」とする。またそもそも,九針十二原篇の「膏之原」も,『太素』諸原所生では「鬲之原」になっている。九針十二原篇も四時気篇も,校勘に拠って修正すれば,膏と肓あるいは鬲と肓の対になる。大腸:膏の原・巨虚上廉・三里と,小腸:肓の原・巨虚下廉。つまり,膏の原は大腸,肓の原は小腸を担当している。

 

脹満と飱泄

 「脹満は三陽を取り,飱泄は三陰を取る」というのも,上下文の意と関わりが無いから錯簡だろうというものが多いようだが,おそらくは誤解である。『針経』の諸篇にはしばしば脹満と飱泄を対挙している。府の二大症状として認識されているらしい。そこでそのそれぞれに対処するための原穴として,九針十二原篇では膏の原と肓の原を挙げ,「脹満は三陽(膏の原?)を取り,飱泄は三陰(肓の原?)を取る」と締めくくる。つまり,膏の原は脹満,肓の原は飱泄に対処している。ただし,三陽と三陰は,何か別字の誤りである可能性が高い。四時気篇にいう「飱泄は三陰の上を補い,陰陵泉を補う」と何らかの関連が有るとは思う。

 

湯を探るが如く 行くを欲せざるが如し

 「諸熱を刺すには手を以て湯を探るが如し。」皮膚に熱が在れば速刺速拔して瀉す。つまり散針であろう。「寒凊を刺すには,人の行くを欲せざるが如し。」寒が分肉の間に在れば,ゆっくりと冷えの在る深さまで刺し,ゆっくりと針尖に熱気が聚まるのを待ち,熱気を漏らさないように丁寧にゆっくりと抜く。瀉法が浅く,補法はむしろ深い。終始篇にいう「脈の実するものは深くこれを刺して,以てその気を泄らし,脈の虚するものは浅くこれを刺して,精気をして出づるを得ざらしむ」とは些か異なり,脈が実しているもの,つまり瀉法を施すには深刺,脈が虚しているもの,つまり補法を施すには浅刺する。

 そもそも補瀉に定式などは無く,刺してみて,針尖に聚まってきたものに対して,さてどうしたものかと工夫を巡らすべきことではなかろうか。聚ってきた気が望ましいものであれば,周囲へ浸透させればよさそうであるし,鬱熱に類すれば,積極的に洩らし,拡散させる。また,瀉法ではその針痕をめったなことでは閉じずに,邪気をできる限り追い出し抜き取る。補法ではすみやかに針痕を閉じて,邪気が入ってくるのを防ぐ。

 

下陵 陰陵泉 陽陵泉

 陰に陽疾があれば下陵三里を取り,疾高くして内なるものには陰陵泉を,疾高くして外なるものには陽陵泉を配する。陰に陽疾がある云々は,陰である腹中に陽邪(あるいは熱象)がある場合にはすべからく三里を取るべしというのだろう。その上で陰・陽の陵泉を配する。四時気篇の「飱泄には,三陰の上を補い,陰の陵泉を補う」という記載を基として,『明堂』などの主治を考察すると,飱泄に陰陵泉というのはかなり普遍的な考え方らしい。そこで,脹満には陽陵泉という使い分けが成立するのかも知れない。気を下すべき状況で,脹満を外なるもの,飱泄を内なるものの代表とする。

 脹満:鳩尾・上巨虚・三里・陽陵泉

 飱泄:脖胦・下巨虚・三里・陰陵泉


 

本輸篇第二 法地

 

 黄帝と歧伯の問答の辞は,篇首にしかない。おそらくは編集者が,篇の概要を示すために作文したものであろう。もともと一つの篇である。

 『太素』巻11には本輸篇に続いて変輸篇(『霊枢』順気一日分為四時)がある。「本」は基本あるいは本来,「変」は変化または応変。

 黄帝が問うところは,後段の目録になっているらしい。つまり編著者の筆になるのではないか。

 

五蔵の留止するところ

 井は岩間から浸み出る水。滎は浸み出て溜たる,ごくわずかの水。輸はすすむ。経はとおる,すぎる。合はあつまる,一つになる。

 

 本輸の説明に最も普遍的に用いられている文字は,「陥」であろう。「動」の字が用いられているのは手太陰の経渠と尺沢,足少陰の復留のみ。案外と少ない。

 

 

輸(原)

 

少商

魚際

経渠

尺沢

手太陰

中衝

労宮

間使

曲沢

手少陰

行間

中封

曲泉

足厥陰

隠白

商丘

陰陵泉

足太陰

涌泉

然谷

谿

復留

陰谷

足少陰

 

手の陰経脈は二条

 当初には手の陰経脈は二条であったから,太陰と少陰であり,後にもう一条が加わったとき,その脈をより小指側に配したので,それを少陰と呼び,それまで少陰と呼んでいた脈は,手心主とか手厥陰とかに呼び変えられた。もともと心と結びついていた脈は今の手厥陰で,それを手少陰と呼んでいたのである。心は神を主るから,畏れはばかって心包の脈を取る,などというのは世迷い言である。

 

六府の与合するところ

 

 

 

膀胱

三焦

至陰

通谷

束骨

京骨

崑崙

委中

委陽

足太陽

竅陰

侠谿

臨泣

丘墟

陽輔

陽陵泉

足少陽

大腸

小腸

厲兌

内庭

陥谷

衝陽

解谿

下陵

巨虚上廉

巨虚下廉

足陽明

()

関衝

掖門

中渚

陽池

支溝

天井

手少陽

()

少沢

前谷

後谿

腕骨

陽谷

小海

手太陽

()

商陽

二間

三間

合谷

陽谿

曲池

手陽明

 

足の陽明は胃の脈なり 大腸・小腸はみなこれに属す

 「また三里を下ること三寸,巨虚の上廉となす,また上廉を下ること三寸,巨虚の下廉となす。大腸は上に属し,小腸は下に属す,足陽明胃脈なり,大腸、小腸はみな胃に属す。」大腸と小腸の上下位置関係が逆になっているが,知識の不足によるものではない。けだし経脈は官能の連なりであり,解剖の知見の披瀝では無いということだろう。また邪気蔵府病形に,内府を治する穴として「胃の合は三里に入り,大腸の合は巨虚上廉に入り,小腸の合は巨虚下廉に入る」とある。

 

足の三焦は太陽の別なり

 

上合于手

 

四時の出入するところ

 原穴が五蔵の診断兼治療点で,五蔵の身体を管理する能力がいうほど完璧であるならば,他のツボなどは無用の長物,である。実際にはそうは行かないから,拡張セットを用意する。原穴でダメなら本輸が有る

 ではどのように使い分けるのか。篇末に,基本的に四季に応じて,春は滎、夏は輸、秋は合、冬は井を取るとある。冬が井であることが不審かも知れないが,冬至が陰が極まって一陽を生じる時だから,冬に陽の始まりである井を取る。その他に,春、秋には絡脈と大経分肉の間を取り,夏には孫絡と肌肉の上を取る。この身体部位の何処を取るかという指示を逆用すれば,井滎輸合をどのような身体事情に応じて取るかの参考になるはずである。冬には諸井と諸輸を取る。諸井を取ることはすでに述べたが,諸輸は分からない。あるいは骨髄の誤りかも知れない。終始篇の春気は毫毛に在り,夏気は皮膚に在り,秋気は分肉に在り,冬気は筋骨に在りも参考になる。

    春    夏    秋    冬

本輸篇 諸滎   諸輸   諸合   諸井

    絡脈   孫絡肌肉      諸輸(骨髄?)

    大経

    分肉之間 皮膚之上 (如春法) 

終始篇 毫毛   皮膚   分肉   筋骨

 冬には井穴を取り,春には滎穴を取り,夏には輸穴を取り,秋には合穴を取る。これを陽が尽きて一陽が生じるときは井穴を取り,陽が盛んになりつつあれば滎穴を取り,陽が極まって一陰が生じるときはには輸穴を取り,陰が盛んになりつつあれば合穴を取る,と拡張できる。それでは井・滎・輸・合穴に針刺するとして,それからどうするのか。別にどうともしないのではないか。それぞれの状況にしたがって,勝手に自然に,陰陽性の是正にむかう。

 

六府の合穴

 手の三陽経脈に大腸、三焦、小腸を配するのは,不当である。馬王堆の陰陽十一脈に拠って,歯、耳、肩の脈とした方が好い。

 したがって,足の三陽経脈と六府の関係にも異見が生じる。

足陽明は胃の脈である。本輸篇にも,「膝の下三寸は,胻の外の三里なり,合と為す,復た下がること三寸は,巨虚の上廉なり,復た下がること三寸は,巨虚の下廉なり,大腸は上に属し,小腸は下に属す」と言っている。邪気蔵府病形篇では,大腸の病は,腸中が切痛して鳴り,寒に重感すれば泄し,臍のあたりが痛み,久しく立っていることができない。胃の病は,腹が脹り,胃が心に当たって痛み,膈咽が塞がって,飲食が下らない。小腸の病は,小腹が痛み,腰背が尻に控えて(ひきつって自由を制限されて)痛む。巨虚の下廉に取る。

 三焦に関しては,足の三焦という言い方が用意されている。足太陽の別で,委陽に出ず。足太陽の膀胱の合は委中である。委中と委陽は,小水の溢れるのと閉じるのとの調節を主どる可能性が有る。邪気蔵府病形篇では,三焦の病は,腹気が満ちて,少腹が堅くなって,小便も大便も通じず,溢すれば水,留まれば脹という状態になる。候は足太陽と少陽の間に現れる。膀胱の病は,少腹ばかりが腫れて痛み,手で按ずると小便をもよおすが,実は出ず,眉(『霊枢』の「肩」を『太素』『甲乙』に拠って改める)の上が熱するかもしくは陥み,足の小指の外側から脛踝の後が熱するかもしくは陥む。

 もう一つ,足少陽の合は陽の陵泉である。邪気蔵府病形篇では,胆の病は,よく大息し,口が苦く,宿汁を嘔き,心下が澹澹として,人に追いかけられ,とらえられるように恐れ(経脈篇では,腎足少陰の脈の是動病),嗌がイガイガしてしばしば唾する。

六府の脈は下肢の陽脈である。

 陰ではあるが足太陰の陰の陵泉も,上述した下合穴の仲間入りさせても好いかも知れない。九針十二原篇では陰と陽の陵泉を対にしている。

 

手足三陽と手の二陰の天穴

 手足三陽には,下の合穴による六府との関係が重要だが,その他に身体を角柱に見立てた場合の役目も大きい。角柱の頂点群としての「天」字を戴く穴に至る。頚周りの穴を駆使して,四肢の筋痛を治療している同学がいる。

 手の二陰の腋に至る穴が添え書きされるのは何故か。手の太陰は寸口乃ち気口の脈である。そしてもう一条は心主の脈である。つまり,呼吸を主どる肺の脈と,血行を主どる心主すなわち心の脈を,特別に挙げたのではなかろうか。

 

五蔵六府の与合するところ

 手の三陽経脈と大腸、三焦、小腸との関係を否定したが,蔵と府の合自体は記述されている。

  肺 ←→ 大腸 伝導の府

  心 ←→ 小腸 受盛の府

  肝 ←→ 胆  中精の府

  脾 ←→ 胃  五穀の府

  腎 ←→ 膀胱 津液の府

 むしろ手足の同名の陽脈をつないではどうか。例えば胃、大腸、小腸の病に,合谷、三里、衝陽の併用は有効かも知れない。


 

【小針解】

 

小針解に拠るか 拠らないか

 小針解は,編著者によって其処に据えられた解釈である。したがってその言うところには,なるべくなら随いたい。しかし,どうにも随いづらいことも有る。


 

【邪気蔵府病形】

 

邪気の人に中るや奈何

 九針十二原篇の「神客在門」を承けていう。神客とは,正邪共に会するなり。神は正気なり,客は邪気なり。邪気が中るのを述べる。

 風雨の邪は上から中る。面に中れば陽明に下り,項に中れば太陽に下り,頬に中れば少陽に下る。膺、背、両脇に中ったものもまたそれぞれの経に下る。清湿の邪は下から中る。必ず臂、胻の皮が薄く肉が弱いところから奥に入る。奥に入り込むといっても,蔵の気が実していれば,邪も居すわることができず,府まで押し返される。普通は陽にあたったものは経に,陰に中ったものでも府に留まる。邪が蔵を傷うのは,何らかの理由で蔵の気が弱っている場合,つまり防御が解けているときである。

 では邪が蔵にまで中るというのは,どんな場合のことか。

 憂い恐れるときには,心を傷る。

 身体が冷えているのに,さらに寒飲食すれば,肺を傷る。

 高いところから墜ちて打ち身になったり,大いに怒って気が晴れないとかでいると,肝を傷る。

 卒倒したとか,酔って房事に及んだとかして,風に中れば,脾を傷る。

 無闇に力を用いたり,房事過多だったりしたあげくに,水を浴びたりすると,腎を傷る。

 

五蔵の病形

 脈の緩急、小大、滑濇を診て,五蔵の病形を知る。緩、急は弛緩と緊急で熱と寒を診る。小と大では血気の皆少と多気少血を診る。小も大も血は少なく,大小は気の多少の違いであって,単純に反対語ではない。滑では陽気が盛んで微しく熱が有るのを診,濇では多血少気で微しく寒が有るのを診る。滑は過度に活動的で,濇は渋滞。他の脈学書の多くと,祖脈の構成が異なる。

 緩急、小大、滑濇のそれぞれに甚と微が有る理由はよく分からない。微の場合の方が,より深刻な情況のような印象なのが,なお分からない。

 寒熱でいえば,緩(多熱)滑(微有熱)濇(微有寒)急(多寒)。

 緩を刺すには,浅く入れて疾く針を抜いて,その熱を去る。滑を刺すには,浅く入れて疾く針を抜いて,もって陽気を瀉して熱を去る。濇を刺すには,必ず脈に中て,その逆順に随って久しく留め,必ず先ず捫してこれに循い,もって針を抜き,疾く痏を按じ,出血させない(血は荷物,荷物が多くて貨車がすくないとき,多くても荷物を安易に捨てたりしない?)ようにして,その脈を和す。 急を刺すには,深く入れて久しくこれを留める。

 大(多気)(陽気盛)滑 ←→ 濇(少気)(少気)小

  (少血)           (多血) (少血)

 大を刺すには,わずかにその気を瀉して,その血を出さない。小は,血気のいずれもが少ないのあるから,そもそも針術の適応ではない。甘薬を処方すべきである。

 そもそも脈診の部位はどこか。九針十二原篇にいうように,原穴が絶対的な診断点であるとすれば,ここでも原穴に触れるのが当たり前である。しかし,現実にはそれぞれの原穴で,これほどの脈状の差を診ることは困難であろう。

 それでは,動じて休まない手の太陰の寸口ではどうか。皮膚から骨髓までの浮沈に五蔵を配当する。そんなに細かく診ることが可能かという声も聞こえてきそうだが,浮中沈に三蔵を配して,それぞれの中間にさらに一蔵ずつを配する,という程度に考えれば,まあ可能な努力目標かも知れない。ここの脈診の祖脈に浮沈が無いのも,そのような推測を後押しする。

 また,人迎脈口診では,五蔵の奈何は脈口で診ることになっている。

 

六府の病形

 本輸篇の「六府の合穴」ですでに述べた。


 

【根結】

 

足の三陽三陰の根結

 初期の経脈がこことかしこを連結するものとして仮設されたものだとすれば,起点と止点のセットということになる。根結篇には,本輸篇のものの他に,二通りのセットが有るように思う。第一のセットは足の三陽三陰が上部に結ぶもの,それを先ず関、闔、枢として説明する。太陽と太陰が関,陽明と少陰が闔,少陽と厥陰が枢である。

 

手足の三陽の根流注入

 第二のセットは,手足の三陽の根、流、注、入であり,入は本輸篇でも紹介が有った頚周りの「天」字を戴く穴と,絡穴である。


 

【寿夭剛柔】

 

剛有り柔有り

 病の在る部位を,五蔵、六府、筋骨、皮膚とする。それに対して取るべきところには,陰の滎輸、陽の合、陰の経、陽の絡がある。外の陽を皮膚と解すれば,絡脈を刺すのが相応しい。内の陽を府と解すれば,陽の合を刺すのが相応しい。経文の「陽之陽」と「陰之陽」を入れ替える。五蔵に在れば陰の滎輸を取り,筋骨に在れば陰の経を取る。

 

外内の応は奈何

 風、寒は形を傷い,憂、恐、忿、怒は気を傷う。

 およそ病むこと三日なれば,一刺して癒える。形が先ず病んで未だ蔵に入らざるものは,その日を半とする。蔵が先ず病んで,気が先ず病んで,形がそれに応じたものは,その日を倍にする。

 

寿と夭

 皮が緩(ゆるやか)であれば寿,急(つっぱる)であれば夭である。

 脈が堅大であれば気盛であり寿,弱小であれば気衰であり夭である。

 顴(ほおぼね)が起るものは骨大にして寿,起きないものは骨小にして夭である。

 䐃(肘膝後の肉塊)堅くして分有るものは肉堅くして寿,䐃堅からずして分無きものは肉堅からずして夭である。


 

【官針】

 

井滎分輸

 『太素』には「病が脈に在って,気が少なくて当に補うべきものは,鍉針を以て井滎分輸に取る」といい,「病が五蔵に在って固居するものは,取るに鋒針を以て,井滎分輸に瀉し,取るに四時を以てす」という。

井滎分輸とは何か。一般的には本輸篇の本輸の内から選ぶという。鑱針と員針に病所に取るというのと対称的に,病所からは離れた施術点である。この解は九針十二原篇の「微針を以て経脈を通じる」のと相応している。

 したがって,井滎分輸とも病所ともいわない針も,実際には「病所に取る」が省略されているのだと考える。また通行本『霊枢』には「病在経絡痼痹者取以鋒針」とあって,鋒針に病所に取る用法を残している。

 しかし,どうして井滎分輸などという不思議な言いかたをするのだろうか。あるいは井滎合輸の誤りで,本輸篇の末にいうところの冬は井,春は滎,秋は合,夏は輸を取れという指示ではないか。ではどうして,井滎輸合として冬、春、夏、秋の順にしないのか。そうして順を互えた言いかたが,修辞法的に可能であるのを証明できるまでは,しばらく保留にしておこう。

 実際には井、滎、輸、合の替わりに,冬に骨髄、春に絡脈大経分肉の間、夏に孫絡肌肉皮膚の上,秋に(春の法の如く)絡脈大経分肉の間で代用していいのかも知れない。

 

九変に応ず

 輸刺は,諸経の滎輸(本輸篇の本輸 遠)と蔵輸(背腧篇の背腧 近)で対を為す。また背部の背腧を近とし,下肢の合穴を遠として対と為す。

 遠道刺は,府輸すなわち下の合穴を刺す。

 経刺は,大経の結絡を刺す。

 絡刺は,小絡の血脈を刺す。

 分刺は,分肉の間を刺す。天回医簡の刺数に分刺はある。ここと同じものかどうかはもう一つはっきりしない。

 大刺は,大膿を刺す。通行本『霊枢』は大写刺に作る。『太素』は大刺。

 毛刺は,浮痹を皮膚に刺す。刺すところによる区別として,分刺、大刺、毛刺ということか。

 巨刺は,左は右を取り,右は左を取る。巨はおそらくは互の誤り。

 焠刺は,燔針で痺を取る。

 

十二節 多数針

 複数の針を刺すか,あるいは複数回刺す。十二節の刺法の説明中に「直」字が登場するのが3分の2,傍字が出るのが4分の1。直は対象に素直にまっすぐ,傍は寄り添って,かたわらに。平らにとか解すべきを疑うのが数例。このあたりに解釈の鍵が有りそうに思う。

 一に偶刺は,心痺の痛みに直に前から一刺し,後から一刺する。前後に刺すので偶という。直痛所といっても,心に中てるわけではない。馬蒔の注に,「然して正取すべからず,須く斜針してもって旁刺するのみ」という。旁とは,心そのものを刺すわけではないことをいう。

 二に報刺は,痛みの箇所が一定しないで上下するものに,先ず痛む箇所を取りあえず刺し,刺したまま左手で上下に按じ,それから針を抜いて新たに痛む箇所を刺す。

 三に恢刺は,筋急を恢す。恢は,ひろげる。直刺してこれを傍らにし,これを前後に挙げて,筋急を弛め,筋痺を治す。

 四に斉刺は,小さいけれども深い寒気(あるいは痺気)に,直に一刺し,傍らに二刺する。斉は,そろう。あるいは参刺という。

 五に揚刺は,正内一,傍内四,しかしてこれを浮して,以て寒気の博大を治す。

 六に直針刺は,皮を引いてから刺して寒気の浅いものを治す。皮を引くとは,平らに刺そうというのだろうか。しかしそれでは直の意味がわからない。郭靄春は,直刺は互刺の文字の誤りではないかという。あるいはさらに平刺もしくは皮刺の誤りではないか。

 七に輸刺は,直入直出して邪を輸(おく)る。疾く針を抜いてこれを浅くして,久しく留める。郭靄春が原文の「深之」は「浅之」の誤りではないかという。これを取る。

 八に短刺は,揺るがせながら深くして骨の所まで達し,骨痺を摩す。摩は,ナデル,サスルだろうが,よくわからない。郭靄春は,短刺は豎(竪)刺の誤りではないかという。豎は,しっかり立てる,まっすぐ立てる。

 九に浮刺は,傍らに刺して浮かす。肌が引きつって冷えるものを治す。

 十に陰刺は,左右ことごとくを刺す。寒厥を治すのに,足の少陰を刺す。「十二刺は以て十二経に応ず」というのに当たりそうなのはこれのみ。

 十一に傍刺は,直刺,傍刺各一して,留痺の久しく居すわるものを治す。

 十二に賛刺は,直入直出,かろやかに針を刺抜して,患部から浅く出血させる。癰腫を治す。賛(贊)は鑚(鑽)で,錐(きり)の類い。

 用針の多くは毫針であろうと思われる。


 

 

【本神】

 

徳気が精神、魂魄、心、意志思智慮を生ずる

 九針十二原篇の「神客在門」について,神は正気にして,中に守るをいう。

 『甲乙経』の首篇であるから,重視する人がいたのは確かだが,これを述べる意義がもう一つ分からない。

 天の徳(宇宙の根源の活力)と地の気(宇宙を構成する本源の物質)が相互に作用して,我が身を生ずる。我が身に先んじて生じたものを精という。雄雌の両精が相い搏して一形を為す。一形の中で霊なるものを神という。魂とか魄とかいうものは,ともに神の別霊であって,神に随って往来するものを魂といい,精に並んで出入するものを魄という。心(かんがえ,おもい)は,神の用であり,万事を主宰する。それが言葉によって具体化すれば意(音¬=ことば と心の合字)といい,意が方向性を示せばこれを志(之=ゆくと心の合字)といい,如何にせんと考えめぐらすのを思(上の田は実は脳袋の象形)といい,遠くおもんぱかるのを慮といい,理解し判断するのを智という。したがって智の段階に到達すれば,四時に順じて寒暑に適し,喜怒を和して居処に安んじ,陰陽を節して柔剛を調えることができるはずである。ところが実際には精神を理想の状態に保つのは聖人の境地であって,凡人の精神はさまざまに揺れ動き,さまざまな身体的不都合を生じている。

 

これ故に五蔵は精を蔵するものなり

 先ず単に情動の過剰によってはどうなるかを言い,次いで五蔵を冠して情動の過剰によって五蔵に関わる神魂魄意志精が傷なわれ,それによって神と形が如何なる影響をうけるかという文章がある。

 思いが過ぎれば,神を傷ない,ビクビクして落ち着きが無い。肉体的には肘や膝の肉が落ちてしまう。

 悲しみが過ぎれば,魂を傷ない,ぼんやりしている。肉体的には睾丸が縮み挙がり,筋が痙攣して,両脇の骨が挙がらない。

 喜びが過ぎれば,魄を傷ない、狂って,人の思惑を意に介さない。肉体的には皮膚がやつれる。

 憂いが過ぎると,意を傷ない,煩悶して思い乱れる。肉体的には手足がこわばる。

 怒りが過ぎれば,志を傷ない,よく前言を忘れる。肉体的には腰骨が痛んで屈伸ができない。

 恐れが過ぎれば,精を傷なう。肉体的には,骨節がだるく痛む。

 

蔵 舎 虚 実

 よく整っていて,現代の中医学の常識とも合う。逆にいえば作文に過ぎない可能性も有る。整理したつもりで次第に実際の経験からは遠ざかる。

 肝は血を蔵し,血は魂を舎す。気が虚せば恐れ,実すれば怒る。

 心は脈を蔵し,脈は神を舎す。気が虚せば悲しみ,実すれば笑う。

 脾は営を蔵し,営は意を舎す。気が虚せば四肢は用いられず,五蔵は安んぜず,実すれば腹脹し,経溲は不利となる。

 肺は気を蔵し,気は魄を舎す。気が虚せば息利少気し,実すれば喘喝胸憑迎息す。

 腎は精を蔵し,精は志を舎す。気が虚せば厥し,実すれば脹し,五蔵は安んぜない。

ここで,精神的症状をいうのは,実は肝気と心気の虚実の場合だ


 

 

【終始】

 

人迎脈口診

 もともと脈診の始めには,脈状を診て病状を知ったのだろう。そして常に拍動する足陽明の人迎で陽の,常に拍動する手太陰の脈口で陰の状態を診ていた。動輸篇に「手太陰、足少陰、陽明独り動じて休まざるは何ぞや」とある。足の少陰は別にして,手の太陰と足の陽明を陰陽脈の代表とする。

 人迎脈口診の最も古い形は,五色篇に在る。人迎が盛緊なもの,つまり外形の問題は,寒に傷なわれた結果である。脈口が盛緊なもの,つまり蔵府の問題は,飲食に傷なわれた結果である。

 禁服篇にも人迎寸口診としてある。先ず「寸口は中を主り,人迎は外を主る」という。両者はほぼ等しいのが正常だが,春夏には人迎がやや大きく,秋冬には寸口がやや大きいくらいが,むしろ季節に相応しい。脈診の判断基準としては「人迎が寸口の一倍であれば,病は足の少陽に在る」のように,確かに比較する」ところからすると,終始篇の人迎脈口診よりむしろ新しいのかも知れない。

 

終始篇の人迎脈口診

終始篇の人迎脈口診は,人迎の拍動が普段よりどれだけ盛んであるかで,三陽の脈のどれであるかを知ろうとしている。少し盛んであれば少陽,より盛んであれば太陽,もっと盛んであれば陽明に在るとする。それに躁が加われば足の脈でなく手の脈に在るとする。脈口の拍動が普段よりどれだけ盛んであるかで,三陰の脈のどれであるかを知ろうとしている。少し盛んであれば厥陰,より盛んであれば少陰,もっと盛んであれば太陰に在るとする。それに躁が加われば足の脈でなく手の脈に在るとする。さらに盛んになって,かつ大かつ数ではもう限界を越えていて,治すことはできない。人迎と脈口を比べているわけでは無い。人迎と脈口の双方が普段より三盛という表現が有るのが証となる。編著者は,最も適当と思われる段階の人迎脈口診を『針経』の末の終始篇に持ってきたつもりなのであろう。ただし,人迎の拍動が普段よりどれだけ盛んであるかで,三陽の脈のどれに問題が在るかを知ろうとするのが,本当に可能かどうかは分からない。

 人迎脈口診の完成は,経脈篇に在ると考えられているようだが,経脈の流注と病症がしっかり把握できていれば,脈診で病所を探る必要など無くもがなではないかと思える。『針経』の第九篇までには,残念ながら経脈の流注と病症に関わる資料は乏しいようである。

 

三刺

 「凡そ刺の属は,三刺して穀気を至らす」。官針篇にも所謂として,「三刺して穀気出ずとは,先ず浅刺して皮を絶して以て陽邪を出す;再刺して陰邪出ずとは,少しく深さを益して,皮を絶して肌肉に致し,未だ分肉の間に入らざるものなり;すでに分肉の間に入れば,則ち穀気出ず」とある。一刺と二刺して邪気を出させ,さらに三刺すれば,空しくなったところへ正気(穀気)が満ちてくるというのだろう。

 九針十二原篇の三刺は,邪が上から入った凹みを刺し,足陽明の合(府を主治するツボ)を刺し,さらに深く刺しすぎると邪を深部に追い込みかねないという。この三刺は他篇のものと異なる。あるいは編者が原材料の言わんとするところを誤解したのではないか。


 

【経脈】

 

流注と病症

 九針十二原篇に「微針を以て経脈を通じる」針術を提唱しながら,経脈篇を番外の第十篇として(退けて)いる。何故か。『針経』の針術に経脈の流注と病症は,案外と必須ではないのかも知れない。診断兼治療点と病所の関係さえあれば,流注途中の経過にさしたる意味は無いのかも……。

 しかし,診断兼治療点と病所を連結するものとして経脈を設定してみれば,どこをどう経過しているかに関心が向かうのも当然であろう。そこで経脈の流注が探索され,主どる所の病が配当される。その成果が第十篇に置かれる。『針経』の信奉者も遠慮無く参考にすればいい。ただし,人迎脈口診の併記は余計なことだと思う。


 

結語

 この論集では,原則として原者の意図に沿って読み進めてきた。つまり,原者の意図とは異なる場合が有りうる。例えば九針十二原篇の「徐而疾則実,疾而徐則虚」。小針解の「徐に入れて疾く出せば補,疾く入れて徐に出せば瀉」を採ったが,『針経』の編集上,そのほうが「篇章を異にし,表裏を別つ」という編集の意図にあうと考えたからに過ぎない。原資料の文意としては,『素問』針解篇の「徐に針を出して疾くこれを按ずれば補,疾く針を出して徐にこれを按ずれば瀉」のほうを採りたい。原著者の本意は,補は針痕を閉じて気を留めるに在り,瀉は放置して気を漏らすに在る,と考えるからである。


 

附録 井上雅文先生方式の人迎脈口診

 


 

 

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