2024年5月2日木曜日

黄帝針経の基本としくみ(23)

 【本神】

徳気が精神、魂魄、心、意志思智慮を生ずる

 九針十二原篇の「神客在門」について,神は正気にして,中に守るをいう。

 『甲乙経』の首篇であるから,重視する人がいたのは確かだが,これを述べる意義がもう一つ分からない。

 天の徳(宇宙の根源の活力)と地の気(宇宙を構成する本源の物質)が相互に作用して,我が身を生ずる。我が身に先んじて生じたものを精という。雄雌の両精が相い搏して一形を為す。一形の中で霊なるものを神という。魂とか魄とかいうものは,ともに神の別霊であって,神に随って往来するものを魂といい,精に並んで出入するものを魄という。心(かんがえ,おもい)は,神の用であり,万事を主宰する。それが言葉によって具体化すれば意(音¬=ことば と心の合字)といい,意が方向性を示せばこれを志(之=ゆくと心の合字)といい,如何にせんと考えめぐらすのを思(上の田は実は脳袋の象形)といい,遠くおもんぱかるのを慮といい,理解し判断するのを智という。したがって智の段階に到達すれば,四時に順じて寒暑に適し,喜怒を和して居処に安んじ,陰陽を節して柔剛を調えることができるはずである。ところが実際には精神を理想の状態に保つのは聖人の境地であって,凡人の精神はさまざまに揺れ動き,さまざまな身体的不都合を生じている。

 

これ故に五蔵は精を蔵するものなり

 先ず単に情動の過剰によってはどうなるかを言い,次いで五蔵を冠して情動の過剰によって五蔵に関わる神魂魄意志精が傷なわれ,それによって神と形が如何なる影響をうけるかという文章がある。

 思いが過ぎれば,神を傷ない,ビクビクして落ち着きが無い。肉体的には肘や膝の肉が落ちてしまう。

 悲しみが過ぎれば,魂を傷ない,ぼんやりしている。肉体的には睾丸が縮み挙がり,筋が痙攣して,両脇の骨が挙がらない。

 喜びが過ぎれば,魄を傷ない、狂って,人の思惑を意に介さない。肉体的には皮膚がやつれる。

 憂いが過ぎると,意を傷ない,煩悶して思い乱れる。肉体的には手足がこわばる。

 怒りが過ぎれば,志を傷ない,よく前言を忘れる。肉体的には腰骨が痛んで屈伸ができない。

 恐れが過ぎれば,精を傷なう。肉体的には,骨節がだるく痛む。

 

蔵 舎 虚 実

 よく整っていて,現代の中医学の常識とも合う。逆にいえば作文に過ぎない可能性も有る。整理したつもりで次第に実際の経験からは遠ざかる。

 肝は血を蔵し,血は魂を舎す。気が虚せば恐れ,実すれば怒る。

 心は脈を蔵し,脈は神を舎す。気が虚せば悲しみ,実すれば笑う。

 脾は営を蔵し,営は意を舎す。気が虚せば四肢は用いられず,五蔵は安んぜず,実すれば腹脹し,経溲は不利となる。

 肺は気を蔵し,気は魄を舎す。気が虚せば息利少気し,実すれば喘喝胸憑迎息す。

 腎は精を蔵し,精は志を舎す。気が虚せば厥し,実すれば脹し,五蔵は安んぜない。

ここで,精神的症状をいうのは,実は肝気と心気の虚実の場合だけ。

 

 

【終始】

人迎脈口診

 もともと脈診の始めには,脈状を診て病状を知ったのだろう。そして常に拍動する足陽明の人迎で陽の,常に拍動する手太陰の脈口で陰の状態を診ていた。動輸篇に「手太陰、足少陰、陽明独り動じて休まざるは何ぞや」とある。足の少陰は別にして,手の太陰と足の陽明を陰陽脈の代表とする。

 人迎脈口診の最も古い形は,五色篇に在る。人迎が盛緊なもの,つまり外形の問題は,寒に傷なわれた結果である。脈口が盛緊なもの,つまり蔵府の問題は,飲食に傷なわれた結果である。

 禁服篇にも人迎寸(●)口診としてある。先ず「寸口は中を主り,人迎は外を主る」という。両者はほぼ等しいのが正常だが,春夏には人迎がやや大きく,秋冬には寸口がやや大きいくらいが,むしろ季節に相応しい。脈診の判断基準としては「人迎が寸口の一倍であれば,病は足の少陽に在る」のように,確かに比較する」ところからすると,終始篇の人迎脈口診よりむしろ新しいのかも知れない。

 

終始篇の人迎脈口診

終始篇の人迎脈口診は,人迎の拍動が普段よりどれだけ盛んであるかで,三陽の脈のどれであるかを知ろうとしている。少し盛んであれば少陽,より盛んであれば太陽,もっと盛んであれば陽明に在るとする。それに躁が加われば足の脈でなく手の脈に在るとする。脈口の拍動が普段よりどれだけ盛んであるかで,三陰の脈のどれであるかを知ろうとしている。少し盛んであれば厥陰,より盛んであれば少陰,もっと盛んであれば太陰に在るとする。それに躁が加われば足の脈でなく手の脈に在るとする。さらに盛んになって,かつ大かつ数ではもう限界を越えていて,治すことはできない。人迎と脈口を比べているわけでは無い。人迎と脈口の双方が普段より三盛という表現が有るのが証となる。編著者は,最も適当と思われる段階の人迎脈口診を『針経』の末の終始篇に持ってきたつもりなのであろう。ただし,人迎の拍動が普段よりどれだけ盛んであるかで,三陽の脈のどれに問題が在るかを知ろうとするのが,本当に可能かどうかは分からない。

 人迎脈口診の完成は,経脈篇に在ると考えられているようだが,経脈の流注と病症がしっかり把握できていれば,脈診で病所を探る必要など無くもがなではないかと思える。『針経』の第九篇までには,残念ながら経脈の流注と病症に関わる資料は乏しいようである。

三刺

 「凡そ刺の属は,三刺して穀気を至らす」。官針篇にも所謂として,「三刺して穀気出ずとは,先ず浅刺して皮を絶して以て陽邪を出す;再刺して陰邪出ずとは,少しく深さを益して,皮を絶して肌肉に致し,未だ分肉の間に入らざるものなり;すでに分肉の間に入れば,則ち穀気出ず」とある。一刺と二刺して邪気を出させ,さらに三刺すれば,空しくなったところへ正気(穀気)が満ちてくるというのだろう。

 九針十二原篇の三刺は,邪が上から入った凹みを刺し,足陽明の合(府を主治するツボ)を刺し,さらに深く刺しすぎると邪を深部に追い込みかねないという。この三刺は他篇のものと異なる。あるいは編者が原材料の言わんとするところを誤解したのではないか。

 

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